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2025年4月20日日曜日

キリストの復活

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)
*生成AIのChatGPTにフェルメール風に描いてもらいました!

説教「キリストの復活」

マタイによる福音書28章1~10節

関口 康

「イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる』」(10節)

イースターおめでとうございます。今日は世界中の教会で、イースター礼拝が行われています。イースターは、イエス・キリストがよみがえられたことをお祝いする日です。

こういうことを言うと「あなたはおめでたい人だ」と言われかねません。「死んだ人がお墓の中から出てきたことの何がめでたいのか。恐怖しか感じない」と顔をこわばらせて言う人がいても、おかしくありません。

教会の看板に今日の説教題として「キリストの復活」と書いていただきました。「復活」などと言わないで、少しぐらいは遠慮して、もっと多くの人に受け入れてもらえそうなことを貼り出すほうがよいかもしれないと、私も考えないわけではないということを打ち明けておきます。

イエス・キリストの復活が「どのように」起こったのかは聖書には記されていません。しかし、4つの福音書に、イエス・キリストの復活は起こったと明言されています。聖書に基づいて説教することになっている教会は、イエス・キリストの復活を宣べ伝えることから逃げることはできません。

教会が「復活」を宣べ伝えるのは、聖書に書かれているからです。聖書に書かれていなければ、必然性はありません。

クリスマスの聖書箇所も同じです。結婚する前のマリアに赤ちゃんが、というあの話です。もし聖書に書かれていなければ、必然性はありません。

奇跡についても同様です。まるで聖書は、ハードルをどんどん高くしてなるべく信じにくくしているかのようです。

信じにくい要素はまだあります。クリスマス礼拝のときも言いましたが、私は天使が苦手です。天使が嫌いだと言っているのではありません。会ったことがないので、どのように説明してよいかが分からないのです。人間でもなく神でもなく、両者の中間に位置するように聖書に描かれている謎の存在。その苦手な天使が、クリスマスの聖書箇所にも、イースターの聖書箇所にも登場するので、困ってしまいます。

そのことは特にマタイ福音書とルカ福音書ではっきりしています。各書の最初と最後に、天使が登場します。イエスさまがお生まれになったときと、復活なさったときに現れます。天使はまるで「狂言回し」です(「歌舞伎・狂言などで、主人公ではないがその狂言の進行に重要な役割をつとめる者」広辞苑第4版)。

しかし、私はいまネガティブな話をしているつもりはありません。クリスマスとイースターの聖書箇所に共通点があると説明している註解書を読みました。どこに共通点があるかというと、「ガリラヤに行くこと」を天使が人間にすすめる言葉です。

今日の箇所では、そのことが7節に記されています。5節から7節までお読みします。

「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」』」。

ここで言われているのは、ガリラヤに行けばイエス・キリストに会える。だからガリラヤに行きなさい、という意味です。

他方、クリスマスの聖書箇所で「ガリラヤ」の名前が出てくるのがマタイ福音書2章22節です。ヘロデ大王による幼児虐殺から逃れるために家族揃ってエジプトに避難した主イエスの父ヨセフの夢に天使が現れ、お告げがあったので、「ガリラヤ地方に引きこもった」(マタイ2章22節)と記されています。ガリラヤに行きなさいと神が天使を通してヨセフに伝えたということです。

このように、クリスマスの天使もイースターの天使も、イエス・キリストの存在と「ガリラヤ」を結びつける役割を果たしている点で共通しています。

この場合の「ガリラヤ」は、広い意味です。「周辺」という意味のヘブライ語「ガーリール」に由来します。主イエスの生誕地ベツレヘムは、首都エルサレムに近いので「ガリラヤ」ではありません。しかし、その後の成長期に過ごしたナザレも、宣教活動を開始したカファルナウムも、「ガリラヤ」です。

「ガリラヤ」は田舎であり、地方であり、分裂王国時代には北王国であり、他国からの流入者の割合が多い「多様な」地です。辺境ゆえに政治と宗教の権力者から見下げられてきた「より多くの慰めが必要な」地です。その「ガリラヤ」でイエスさまは宣教されました。

これらのことで分かるのは、今日の箇所で、天使と復活されたイエスさまご自身が弟子たちに「ガリラヤに行きなさい」と促しておられるのは、「あなたの原点に立ち返りなさい」と言われているのとほとんど同じ意味であるということです。

昨年9月8日の「足立梅田教会創立70周年記念礼拝」で説教してくださった北村慈郎牧師と、先々週4月12日に「北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる会」の総会で私が講演させていただいた日本基督教団紅葉坂教会(横浜市)でお会いしました。

北村先生は、わたしたちの70周年記念礼拝のときも、先々週の会で私を紹介してくださるときも、「私の原点は足立梅田教会です」と多くの人の前でおっしゃいました。「私のガリラヤ」とはおっしゃいませんでしたが、きっとそのお気持ちを持っておられます。「ガリラヤに行きなさい」というすすめには「あなたの原点に立ち返りなさい」という意味があるからです。

イエス・キリストが「どのように」復活されたのかは聖書に記されていないと申しました。墓の中で目を開き、体を起こし、立ち上がり、歩いて墓穴から出てくるイエス・キリストを描写するスペクタクル(視覚的)な記述は、どこにもありません。とはいえ、「どのように」についても触れられている箇所がある、ということをご紹介しておきます。

天使が婦人たちに伝えた言葉は「あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり復活なさったのだ」(6節)です。秋川雅史(あきかわまさふみ)さんの「千の風になって」という歌を思い出します。「私のお墓の前で泣かないでください。ここに私はいません。眠ってなんかいません」。イエスさまは「千の風」にはなりませんが、「お墓の中にはいない、眠ってもいない」という点は、あの歌のとおりです。

しかし、この天使の言葉の中に、イエス・キリストの復活が「どのようにして」起こったのかという問いと結び付けることができる点があります。それは「かねて言われていたとおり」という言葉です。見過ごされやすい言葉ですが、重要な意味があります。

イエス・キリストは「わたしは復活する」と弟子たちの前で何度もおっしゃいました。イエス・キリストの復活は「ご自身の言葉通りになった」事実です。これが「どのように」の答えです。弟子たちにとっては、イエスさまがおっしゃったとおりのことが実現したのだから、それで十分なのです。

足立梅田教会は健在です。日本基督教団もまだ死んでいません。ですから「復活」という言葉は当てはまりません。しかし、生命の危機を感じるときは「ガリラヤに行くこと」が大切です。「原点に立ち返ること」です。「あなたのガリラヤ」にイエス・キリストがおられます。

(2025年4月20日 日本基督教団足立梅田教会 イースター礼拝)

2025年4月13日日曜日

十字架への道

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)
*生成AIのChatGPTにゴッホ風に描いてもらいました!

説教「十字架への道」

マタイによる福音書27章32~56節

関口 康

「同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう』」(41-42節)

今日の朗読箇所はローマ軍の兵士たちがキレネ人シモンにイエスの十字架を無理に担がせた場面から始まります(32節)。一説によれば、死刑囚が運ぶのは十字架の横木だけで、縦の木は死刑場にあらかじめ立っていました。しかし、横木だけでもひとりで運ぶには重すぎたので、手伝う人が必要でした。

ゴルゴタとは「頭蓋骨」(新共同訳「されこうべ」)を意味するアラム語に由来します(33節)。過去の死刑囚の頭蓋骨が常に散乱していた、という意味ではありません。頭蓋骨の形をした岩があったと言われています。ゴルゴタの正確な位置についても諸説あります。

主イエスがゴルゴタに着くと、ローマ兵たちがイエスに「苦いものを入れたぶどう酒」をこれも無理に飲ませようとしました(34節)。マルコ福音書(15章23節)は「没薬を混ぜたぶどう酒」としています。「没薬」は鎮痛剤です。死刑の苦しみを緩和するためです。

しかし、イエスさまはその液体を舌で確認したうえで拒否されました。考えられる理由は、完全に意識を保ったまま最期を迎えることを望まれたということです。ゴルゴタまで木材を運ぶのに必要な力とは異なる力です。イエスさまは酩酊や麻酔なしの、その意味で〝完全な〟死の苦しみをお引き受けになりました。

イエスが十字架につけられる場面の描写は、「彼らはイエスを十字架につけると」(35節)だけで終わりです。克明な状況描写や心理描写は記されていません。ローマ兵たちが「くじを引いてその服を分け合った」(35節)のは、イエスが衣服なしに、つまり「裸」で十字架につけられたことを意味します。3月30日の特別礼拝で荻窪教会の小海基牧師がイザヤ書20章1~6節に基づいて「裸の預言者」についてお話しくださったことを思い出します。

マタイが十字架刑そのものについては何も描いていないのは、描くのを躊躇(ためら)っているように見えるほどです。その一方で、マタイが克明に描いているのは、イエスの十字架の周りにいた人々の〝嘲笑〟です。

明らかにマタイは読者に対し、そのことに強い関心を持たせようとしています。苦しむイエスを見ながら笑う人々の顔をよく見てほしいと願っています。「その一人一人の顔は、鏡にうつったあなた自身の顔かもしれません」ということに気づいてもらいたいのです。

十字架刑の開始時刻は「午前九時」とマルコ福音書(15章25節)だけが記しています。イエスの頭の上の罪状書きに「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれていました(37節)。これはイエスが木材を運んでいるときは首にかけられていた札でした。

この罪状書き自体が嘲笑であり、軽蔑でした。衣服をはいで裸にして、木材に釘ではりつけて、罪状書きの札に上から指差させて「これが(フートス・エスティン)、こんなやつが、ユダヤ人の王、だってさ」と笑っています。これはピラトがイエスの尋問を始めたときに最初に言った「お前がユダヤ人の王なのか」(27章11節)と同じ言葉です。からかっているだけです。

2人の「強盗」も十字架につけられます(38節)。「強盗」(レスタイ)と呼ばれていますが、政治犯の可能性があります。「強盗」の一人はイエスさまの右に、もう一人は左に。

先週の説教箇所(マタイによる福音書20章20~28節)で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母親がイエスさまに、2人の息子の「一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(20章21節)とお願いしました。右と左は部下です。真ん中がかしらです。「ユダヤ人の王」が真ん中の「強盗の頭」として十字架につけられました。これもひどい嘲笑なのです。

「そこを通りかかった人々」が、頭を(おそらく横に)振りながらイエスさまを罵りました。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(40節)。

これは3月9日の礼拝で取り上げた「悪魔の誘惑」が関係します。「神の子ならやってみろ」は、主イエスが荒れ野で誘惑をお受けになったときの悪魔の言葉です(マタイ4章3節、6節)。荒野の誘惑の物語では、「神の子なら」神殿の屋根から「飛び降りたらどうだ」(4章6節)と続きます。今日の箇所では「十字架から降りて来い」と続きます。やれるものならやってみろ、できるわけがないだろう、と嘲笑しているのです。

通行人に続いて、「祭司長、律法学者、長老」がイエスさまを侮辱します。この 3 つの立場の人々がユダヤの最高法院(サンヘドリン)を構成していましたので、「サンヘドリンが侮辱した」と言っても過言ではありません。

この人々が「他人は救ったのに、自分は救えない」(42節)と言いました。興味深いのは、ここに来てサンヘドリンが「イエスは他人を救った」と認めている点です。

彼らにとってはイエスのいやしも奇跡もすべてインチキでなければなりませんでした。しかし、今日の箇所では「他人は救った」と認めています。大きな前進です。そのうえで彼らは、「他人は救えるのに、自分は救えない」という言葉でイエスさまを侮辱しました。

彼らも宗教者です。「宗教者だって人間なのだから、他人に尽くすことばかり考えず、自分のことを優先してもよいのでは」と言いたかったのかもしれません。イエスさまにはその選択肢だけはありませんでした。

イエスさまは、右と左にはりつけにされた「強盗たち」からも罵(ののし)られました。十字架の上でイエスさまは3度嘲笑されました。第1に通行人(39節)、第2にサンヘドリンの議員(41節)、第3に強盗(44節)。どれも「嘲笑」を意味しつつ微妙にニュアンスが違うギリシア語の動詞が3つ使い分けられています。

強盗のひとりがもうひとりの強盗をたしなめたという話は、ルカ福音書(23章39~43節)に描かれていますが、マタイ福音書には描かれていません。

イエスさまが息を引き取られたのは「三時ごろ」(46節)でした。9時から始まったので6時間後です。そのとき「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました(46節)。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味のアラム語です。居合わせた人々の耳に「エリ」が「エリヤ」に聞こえ、預言者エリヤを呼んでいると言い出す人がいました(47節)。

イエスさまは十字架上で絶望されました。しかし、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」は、明らかに旧約聖書の詩編22編の引用です。詩編は歌なので、イエスさまは十字架の上で歌われたと言えなくありません。

詩編22編の最後の言葉は希望のメッセージです。「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来たるべき世に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう」(詩編22編30~32節)。

イエスさまが辞世の句として引用した詩編22編は、漠然としたあきらめ(諦念)や避けられないさだめ(運命)の絶望的な受け入れではなく、神との積極的なつながりを語るものでした。

イエスさまはアルコールも鎮痛剤も拒否なさり、完全な意識と痛覚をお持ちになったままで死の瞬間を迎えました。冷たくなったイエスさまの口から「恐れるな」「勇気を出せ」という言葉が語られることはもはやありません。

しかし、百人隊長たちが「本当に、この人は神の子だった」と言いました(54節)。彼らは軍人です。人間の強さに関心があります。その彼らにとってイエスさまの強さは異次元でした。彼らはフィジカル(肉体的・物理的)な強さとは全く異なる「本当の強さ」を、イエス・キリストに見出したのです。

(2025年4月13日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年4月7日月曜日

「日本基督教団信仰告白」についての主題説教(全10回)を行います

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

5月4日(日)から7月6日(日)まで全10回の予定で「日本基督教団信仰告白」についての主題説教(教理説教)を行います。

 

日程

説教題

「日本基督教団信仰告白」該当箇所

1

月 

聖書と教会

我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。

2

11

聖書と生活

されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。

3

18

三位一体の神

主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。

4

5 月25

キリストによる贖罪

御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり。

5

月 

神の恵み

神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。

6

月 

聖霊の働き

この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。

7

15

教会の使命

教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり。

8

22

礼拝と宣教

教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、

9

29

洗礼と聖餐

バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、

10

月 

信仰・希望・愛

愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。


2025年4月6日日曜日

十字架の意味

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「十字架の意味」

マタイによる福音書20章20~28節

関口 康

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(26-27節)

ユダヤ人は「十字架刑」を執行しませんでした。ユダヤの極刑は石打ち刑でした。十字架刑を最初に発案した、または少なくとも最初に使用したのはペルシア人でした。ゾロアスター教の神に聖なるものとして献げた大地が被処刑人の体で汚されてはならない、という理由でした。

ギリシアで十字架刑は、国内では行われませんでしたが、アレクサンドロス大王と彼の後継者がカルタゴ人の処刑に使いました。カルタゴからローマ人に伝わり、重犯罪者の処刑方法になりました。ローマの属州では、秩序と安全の維持のため最も強力で最も残酷な手段とされました。

ローマにとっての「不穏な」属国ユダヤでは、十字架刑の例が無数にあります。一度に二千人のユダヤ人を十字架に引き渡した例もあります。西暦70年の「エルサレム攻囲戦」のときには、毎日あらゆる身分のユダヤ人が500人またはそれ以上捕らえられて町の中で十字架につけられたため、最後は十字架に使う木材もそれを立てる場所も足りないほどでした(以上、ヨーゼフ・ブリンツラー著『イエスの裁判』大貫隆、善野碩之助訳、新教出版社、1988年、356~357頁参照)。

十字架刑の主たる目的は「さらす」ことです。日本でも「さらし首」は明治初期まで行われていました。まだ150年前ぐらいですので、決して他人ごとではありません。『写真集「甦る幕末」オランダに保存されていた800枚の写真から』(朝日新聞社、1986年)に当時の写真があります。

十字架の高さは遠くから見えるように人間の身長よりも少し高いか、それ以上でした。死刑囚の首に死刑の理由(causa poenae)を記した看板がかけられました。体を支えるために、途中に取り付けられた木片を足置きか腰掛けにすることもあったようですが、古い報告書にそのような木片についての言及はありません。

十字架刑がローマで初めて廃止されたのは、西暦313年の「ミラノ勅令」によってローマ帝国でキリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝(西暦270~337年)の治世になってからでした。

今日の箇所で「ゼベダイの息子たちの母」が2人の息子と一緒に、イエスさまのもとに来て、ひれ伏して、あることをお願いしました。「ゼベダイの息子たち」とは、主イエスの最初の弟子になった4人のうちの「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」(マタイ4章21節)の2人です。

彼らの母が言いました。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(21節)。これは神の国、つまり天国の話です。要するに、「天国でイエスさまがナンバーワンになられたときは、うちの子たちをナンバーツーとナンバースリーにしてください」というお願いです。

イエスさまが「あなたがたは自分が何を願っているか分かっていない」(22節a)と言われていますが、これは決して怒りや非難の言葉ではありません。この後すぐに「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(22節b)と続きます。イエスさまとしては「わたしが飲もうとしている杯は十字架刑なのですよ?本当に大丈夫ですか?」と心配してくださっているのです。そのイエスさまの質問への答えは、2人とも「できます」。ますます心配になるパターンです。

ゼベダイの子たちはその杯を実際に飲みました。ヤコブは西暦44年ごろ殉教しました。ヨハネについては、殉教したという記録もあれば、エフェソで46歳で自然死したという記録もあります。いずれにしても、イエスさまの質問に対する彼らの答えは決して軽いものでも簡単に言えるものでもありませんでした。彼らは主イエスと共に、苦しみの道を歩む意志を持っていました。

イエスさまはそのことも分かっておられます。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」(23節a)と認めてくださいました。しかし「わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない」(23節b)ともおっしゃいます。それは神さまが決めてくださることですと、主イエスは最高の権威を天の父である神にお委ねになりました。

すると、他の10人の弟子が腹を立てました。ヤコブとヨハネに嫉妬したのではなく、彼らがイエスさまの弟子の中でナンバーワンとナンバーツーを狙っているということは、つまり我々10人のことを下に見ているからだろうと感じたのだと思います。だから彼らは腹を立てました。狭い仲間内の順位争いです。

そこでイエスさまは、彼らみんなを呼び寄せて説教されました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」(25~26節)。

世界の支配者がいばりちらし、権力を行使する。そういうことをする人がいることを、あなたがたは知っています。あなたがた自身はそうであってはなりません。これは、相手と同じになってはいけないという意味です。

イエスの弟子になりたい人に対しては、世の中の価値観とは正反対の基準が適用されることになります。その基準が「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」(27節)です。いちばん上になりたければいちばん下になりなさい、ということです。

イエスさまのこの教えの中で「偉くなりたい」「一番になりたい」という人の思いは、少しも否定されていません。むしろ肯定されています。「仕える者」の意味は「奴隷」です。つまりイエスさまは「いちばんになって偉くなりたい人は、すべての人に奉仕する者になりなさい」と言われています。

「奉仕すること」はギリシア人にとって価値が低いことと考えられていました。ギリシア人の「男らしさ」の基準は「支配すること」と「奉仕しないこと」でした。イエスさまの弟子になれるかどうかの条件は、その正反対です。「奉仕」の心があるかどうかです。

イエスさまご自身も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための、贖いの代価として自分の命を与えるために来てくださいました。イエスさまは、十字架の上でご自身の命を献げることは「奉仕」であると理解しておられ、「人の子」すなわちイエスさまは「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(28節)と明言されました。

この「身代金」が誰に支払われるかは分からないように記されています。テロリストに屈するようなことをしてはならないのはごもっともです。しかし、「身代金」の本来の意味は、捕らえられているだれかを解放するために支払われるお金のことです。身代金を支払う者は、その身代金を支払われた人を解放し、新しい人生を始められるようにします。

つまり、主イエスがご自身のことを指して言われた「多くの人の身代金」という表現は、ご自身が意識的に人間を罪と罪悪感から解放するために命をささげようとしたことを示しています。

このように、イエスさまの弟子になることは、世間では当たり前とされていることの逆です。「自動的に」または「生まれつき」または「努力によって」または「反省によって」得られるものではありません。神の恵みによって起こる「回心」を経ることが必要です。

わたしたちに求められているのは「奉仕」の心です。イエスさまと同じように、十字架の上で命を献げることまでは求められていません。神を愛し、隣人を愛し、共に生きるすべての人々に「仕える」心をもって生きるとき、主イエス・キリストはわたしたちと共におられます。

(2025年4月6日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)