2025年3月23日日曜日

受難の予告

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「受難の予告」

マタイによる福音書16章13~28節

関口 康

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24節)

今日の箇所で、イエスさまが弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになっています(13節)。

この内容の質問はこのときが初めてです。「人の子」は主イエスご自身です。この質問の意図は、ご自身についての評価を問うておられるということです。私は人々にどう見られているのか、どんなうわさがあるかを教えてほしいということです。

しかしそれは、たとえばイエスさまが疑心暗鬼になって自分の評判を調査させたというようなこととは違います。そうではなくて、伝道活動の「効果測定」です。種を蒔いたら蒔きっぱなしで、「あとは野となれ山となれ」と放置するのではなく、伝道の結果責任を負おうとしておられるのです。

「フィリポ・カイサリア地方に行ったとき」(13節)と場所が特定されているのは、イエスさまの質問内容と関係あるからです。フィリポ・カイサリアの位置は巻末付録の聖書地図「6」で確認できます。ガリラヤ湖よりもさらに北です。

「カイサリア」は「カイザルの」、すなわち「ローマ皇帝のもの」という意味です。イエスさまがお生まれになったときのローマ皇帝アウグストゥス(本名オクタヴィアヌス)がヘロデ大王に与えた町です。そして「フィリポ」はヘロデ大王の息子の名前です。アウグストゥスがヘロデにこの町を与えたのが紀元前20年ごろ。イエスさまが公の宣教活動をお始めになった西暦30年前後までに50年ほど経過しています。その町の住民の多くは異邦人でした。

これらの情報に基づいてイメージできるのは、新興住宅地として作られ、半世紀ほど経過した町です。首都エルサレムから遠いという意味で田舎。ヨルダン川の源流、ヘルモン山に近い高台。良く言えば、新しいものを受け入れ、変わって行く可能性を秘めている町。悪く言えば、歴史も伝統もない。落ち着かない。

弟子たちの答えは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」(14節)というものでした。この反応の意味を少し細かく見ていきます。

ヨハネは、主イエスの公生涯開始の直前まで活躍した預言者です。「最近の人」です。

エリヤは、紀元前9世紀の預言者。列王記上17~19章に登場します。分裂王国時代の北イスラエル王国のアハブ王(在位前869~850年)の時代に、バアルという偶像を拝む人々と戦ったことで知られます。「戦いの人」です。

エレミヤは、紀元前6世紀の預言者。エレミヤ書と哀歌の著者。南ユダ王国末期に国家滅亡を預言して迫害を受け、苦難の生涯を送りました。エレミヤも「戦いの人」です。負けるのですが。最期は殺害されました。

ヨハネ、エリヤ、エレミヤに共通するイメージは「戦いの預言者」です。そのようにフィリポ・カイサリアの人々がイエスさまのことを評価していたのであれば、ピントが合っているのではないでしょうか。洗礼者ヨハネの動きなど最新情報も得ているし、聖書の内容も正しく理解できている、知的水準が高い人々の町だったと言えるのではないでしょうか。

しかし、弟子たちが集めてきた情報に対して、イエスさまはノーコメントです。ひとこと欲しいところですが。その代わりに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになりました(15節)。

ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。この答えをイエスさまがお喜びになりました。そして「あなたはペトロ」と命名なさいました。「ペトロ」は「岩」という意味です。そして「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と主イエスがおっしゃいました。

イエスさまこそ「メシア」、そのギリシア語訳である「キリスト」と信じる信仰をペトロが告白しました。その「ペトロの信仰告白」こそが「教会の土台である」ということです。

この箇所については、長年続く議論があります。それは、イエスさまが「この上にわたしの教会を建てる」とおっしゃっているときの「岩」は、ペトロの人間性や人格を指しているのか、それとも、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白だけを指しているのかという議論です。

問題を難しくしているのは、ローマ教皇が「使徒ペトロの後継者」であることになっていることです。プロテスタント教会は、この「岩」は「信仰告白」だけを指しているのであって、ペトロの人格ではないと教えて来ました。

もう一つ、カトリック教会にとって重要な議論は、ペトロとパウロのどちらが優位かという問題です。16世紀生まれで17世紀にローマ教皇になったインノケンティウス10世(Innocentius X [1574-1655])(在位1644~1655年)が、パウロをペトロと同等や優位とみなすことを異端としました。しかし、使徒言行録はじめ西暦1世紀から3世紀までのキリスト教文書にペトロとパウロが同等の存在として登場することは、文献的に立証できます。

このことを申し上げるのは、カトリック教会の立場を批判したり揶揄したりするためではありません。この議論には長い歴史がありますので、ぞんざいに扱われてはなりません。

また「信仰告白と人格は切り離すことができるか」という問題はきわめて重要です。私は切り離せないと考えます。「信仰告白」の意義は百も承知です。しかし、「ペトロの信仰告白」がペトロの人格と無関係にあるわけがありません。人間の存在と働きから切り離された「信仰告白」など存在しませんし、そんなものの上に「生きた教会」が立つはずがありません。

今日は、この問題に深入りできません。今日の説教題の「受難の予告」の箇所まで話を進めなくてはなりません。しかし、私が申し上げるべきことは、ほぼ尽きています。

それは、主イエスが弟子たちにご自身のこれから進む道の先に十字架の死の苦しみが待ち受けていることを伝えたのは、このときだった、ということです。

イエス・キリストの苦しみは、「真の教会を建てるための戦いの苦しみ」でした。そうだとしたら、私たちもイエスさまの苦しみに与(あずか)ることができます。

「与(あずか)る」とは参加することです。英語でparticipate(パーティシペイト)が「参加する」という意味です。この英語は「パート、すなわち部分(part)になること」を意味します。

イエスさまの苦しみにあずかることは、真の教会を建てることの苦しみを部分的に背負うこと、つまり、教会活動に参加することをそのまま意味します。

イエスさまは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分のいのちを救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(24~25節)とおっしゃいました。

ペトロもパウロも、その他の使徒たちも、最期は殉教しました。しかし、「主イエスの苦しみにあずかることのすすめ」は「殉教のすすめ」ではありません。健康であることは重要です。私も気を付けます。しかし、真の教会を建て上げるためにささげる命は惜しいものではありません。そうするだけの価値があります。そのことを主イエスご自身が教えておられます。

(2025年3月23日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年3月16日日曜日

悪と戦うキリスト

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「悪と戦うキリスト」

マタイによる福音書12章22~37節

関口 康

「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」(32節)

先週の説教の中で「バイクのシミュレーター教習」について話したとき、「シュミレーターではありません」と口頭で付け加えました。Simulatorは「シュミ」(趣味?)ではなく「シミュ」です。m(エム)は1つです。「同時に」という意味のsimultaneous(サイマルテイニアス)な仕方で、ある事象を他の時間や場所で再現するための手段が「シミュレーター」です。

もうひとつ気を付けたい言葉は「コミュニケーション」です。「コミニュケーション」と言っている人が時々います。m(エム)は2つです。語源はラテン語communicatio(コムニカティオ)です。近い表現に、共同体をあらわすcommune(コムーネ)や、交わりをあらわすcommunio(コムニオ)があります。使徒信条の「聖徒の交わり」は、communio sanctorum(コムニオ・サンクトールム)です。共産主義はCommunism(コミュニズム)の訳です。

今日の箇所に関係があるので申し上げています。今日は「コミュニケーション」の話です。この箇所に記されているのは、「悪魔に取りつかれている人」(ギリシア語「ダイモニゾメス」)が、目が見えず口が利けない状態で主イエスのもとに連れて来られ、病が癒されたとき、デマを流した人々がいたという話です。

誤解を避けるために最初に申し上げたいのは、西暦1世紀のユダヤ人は、すべての病気や苦しみの原因は「悪霊の憑依(ひょうい)」であって「偶然」ではないと考えていたということです。あえて「悪霊に取りつかれている人」(ダイモニゾメス)と記されているときは、「重い病気を抱えている人」という意味で理解すべきであって、特殊な病気を指すわけではありません。

「デマ」はドイツ語Demagogie(デマゴギー)の略です。故意の虚偽情報のことです。そのとき流されたデマの内容は、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)というものでした。

デマの発信源は「ファリサイ派の人々」でした。彼らはユダヤ教の主流派であり多数派で、権力を保持し、社会的影響力が大きかったのですが、そういう立場を悪用して、イエスを死刑にするための策略として意図的にデマを流しました。なぜなら、当時のユダヤ教では、魔術を使うことと、悪魔の手下になることは、死刑に値すると考えられていたからです。

ファリサイ派の作戦は、「イエスは悪魔の手下だから悪霊を追い出せる」というデマを流すことでした。それは、群衆の間でイエスの名声を失わせ、死刑でイエスを殺害するという作戦です。

まさに「コミュニケーション」の問題です。コミュニケーションにとっての最大かつ最悪の障害は「デマ」です。「コミュニケーション」にぴったり当てはまる日本語が存在しません。「意思疎通」や「情報交換」などと訳されますが、そういう言葉には収まりきらない、非常に広い意味です。人と人との信頼関係の土台となるものです。

だからこそ、信頼関係で結ばれている人間社会を破壊するために、自分の手を汚さずに行えて、最も効果的な方法はデマを流すことです。私が申し上げているのは「そういうことをしてはいけない」という意味です。デマが人を追い詰め、死に至らしめることがあるということを、私たちは強く自覚しなければなりません。

しかも、ここで私たちがあまり安心しないほうがよいのは、デマを流した張本人がファリサイ派の人々だったという点です。彼らは聖書の研究者であり、宗教の専門家です。そういう人たちが聖書を用いて、「神」の名においてデマを流すので、悪質さの度合いが尋常でないのです。

イエスさまは彼らの考えを見抜いて反論されました。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか」(25-26節)。

私が子どもの頃に「デビルマン」というテレビアニメがありました。子どもの頃に覚えた主題歌が耳に焼き付いて離れません。「悪魔の力を身につけた正義のヒーロー、デビルマン」。しかしそういうことは現実には起こらない、というのがイエスさまのお考えです。悪魔と悪魔が戦ってどちらが勝っても残るのは悪魔なのだから正義が実現することはありえない、という冷静な三段論法です。

「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」(27節)と続きます。最初に申し上げたとおり当時のすべての病気が「悪霊の憑依」によると考えられていたことと関係します。イエスさまがおっしゃっていることの意味はこうです。「あなたがた自身も悪霊を追い出して病気の人を治しておられるはずですが、どうなさっているのでしょうか。『悪魔の手下だから悪魔を追い出せる』という理屈がもし成り立つのであれば、あなたたちこそ悪魔の手下だということになりはしませんか」。とても冷静な論理です。

しかしイエスさまは、ファリサイ派のデマに対して腹に据えかねるものがおありになったと言わざるをえません。「だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」(31-32節)とおっしゃいました。

この言葉の背景に「赦される罪と赦されない罪」についてのユダヤ教の教えがあります。西暦1世紀のユダヤ教のラビは「聖霊」を「預言と啓示の霊」であると理解していました。彼らにとっての「赦されない罪」も「聖霊に言い逆らうこと」でしたが、その意味は「トーラー(律法)に逆らうこと」でした。トーラー(律法)は「言葉に言い表された神の御心(意志)」としてとらえられていましたので、それに逆らう罪は赦されません。

しかし、今の説明はユダヤ教の教えですが、イエスさまのおっしゃっていることとは違います。イエスさまも「聖霊に対する冒瀆」を「赦されない罪」だと言っておられますが、問題はその意味です。この意味が私はこれまで分かりませんでした。しかし、やっと分かった気がします。

イエスさまが「赦されない罪」だと言っておられるのは、病気でずっと苦しんできて、それがやっと癒されて、そのことを心から喜んでいる人たちを傷つけるようなことを言い放つことです。実を見て木を知る。良い結果が出たのは良い原因があったことを意味する。悪い原因は悪い結果しか生まない。つまり、悪魔に病気を治せるわけがない。それなのに、長年苦しんできたこの私の病気がやっと癒されたことを「悪魔に病気を治してもらった」かのように言う。けちをつけて、喜んでいる人を傷つける。それが、イエスさまがおっしゃる「赦されない罪」です。

「喜ぶ者と共に喜ぶこと」(ローマ12章15節)が難しいと感じるのは「ねたみ」の仕業であるとファン・ルーラーが書いています(拙訳参照)。「喜びを人に分かつと喜びは2倍になる」とドイツの詩人ティートゲが教えました。それができないどころか、喜んでいる人を苦しみの中に引きずりおろすようなことをしてしまう。それは「ねたみ」の仕業です。

これこそがイエスさまの言われる「赦されない罪」です。イエスさまはこのことを、警告としておっしゃっています。非難ではありません。イエスさまはどこまでも寛容です。

(2025年3月16日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年3月9日日曜日

荒れ野の誘惑

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教 「荒れ野の誘惑」

マタイによる福音書4章1~11節

関口 康

「すると、イエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある』」(10節)

今日の箇所に記されているのは主イエスが悪魔に誘惑される物語です。教会生活が長い方々は繰り返し学んで来られました。しかし、何度読んでも釈然としないとお感じの方が多いのではないでしょうか。「悪魔」とは何なのか。記されていることは事実なのかなど、多くの疑問がわき起こる箇所です。

先週ご紹介しました、私が頼りにしているオランダ語の聖書註解シリーズのマタイ福音書の巻(著者J. T. Nielsen)を今回も読みました。大変興味深いことが書かれていましたので、ご紹介いたします。

こう記されていました。「イエスは霊に導かれて荒れ野に行かれた」(1節)の「導かれて」(ἀνήχθη アネクテ)が受動態で記されているのは「神が聖霊によってイエスを荒れ野に導いた」という意味だろう。しかし、それはヨルダン川の下流の地域から上流の砂漠地帯への移動だけを必ずしも意味せず、「幻の出来事」(een visionair gebeuren)としてとらえることも可能である、というのです。

いかがでしょうか。この物語の中で主イエスは「荒れ野」だけでなく「エルサレム神殿」にも「非常に高い山」にも連れて行かれますが、すべて物理的に移動したと考えなければならないことはなく、「聖霊の導きによって幻の中で移動した」と考えることができるなら、この箇所の読み方が大きく変わってくるはずです。

ここで私がつい思い浮かべるのは、バイクのたとえです。バイクの免許を取る人が必ず受講するのは「シミュレーター教習」です。バイクは四輪車よりも明らかに事故に遭う確率が高いです。しかし、だからといって、実際に事故に遭ってケガをしてみるという体験学習はありえません。それで生み出されたのが、コンピュータが描き出す「ヴァーチャル・リアリティ(仮想現実)」の中で「事故に遭ってみる」という学習方法です。

私もその教習を受けました。結構こわかったです。細い道でバスが停留所に止まっている。そのバスを追い越そうとすると、突然子どもが飛び出してくる。急ブレーキをかけると車体が転倒する。シミュレーターが実際にガタガタ揺れます。また、指導員が「スピードを80キロまで上げてください」と言うので、指示通りにする。すると、急カーブで曲がり切れなくてガードレールに激突して谷底に落ちる。そういうトレーニングでした。

いま私が申し上げているのは、今日の物語は間違いなく「ヴァーチャル・リアリティ」の出来事であるということではありません。その可能性があると解釈されていることをご紹介しているにすぎません。しかし、「ヴァーチャル・リアリティ」は虚偽や詐欺だと考えるのは間違いです。実際にケガをしたりモノを壊したりしてみるわけに行かない中での、有効な訓練手段です。

今日の説教題「荒れ野の誘惑」の「誘惑」は新共同訳(1987年)の表現です。聖書協会共同訳(2018年)(※「聖書協会共同訳」は長いので以下「SKK訳」と略します)では「試み」と訳されています。「試み」とはテストです。それは、イエスは本当に「救い主」にふさわしいのかどうかを見極めるテストです。

主イエスは「四十日間、昼も夜も断食した後」(SKK訳「四十日四十夜、断食した後」)空腹を覚えられました(2節)。すると「誘惑する者」(SKK訳「試みる者」)が来ました。テスト開始です。  

「悪魔」はディアボロス(διάβολος)。「ディア(δια) 」(through、~を通して) +‎ 「バロー(βάλλω)」(throw、投げる)で「投げつける」(door elkaar werpen)というのが悪魔の原意です。悪魔はピッチャーです。イエスさまはバッター。いざ、勝負!

問題は3問。場面が「荒れ野」「エルサレム神殿」「非常に高い山」と切り替わります。この3つの場所の関係性が、私は今までよく分かりませんでした。しかし、やっと分かった気がします。

「荒れ野」は砂漠です。グラフで表すとしたら零(0)。神が働いてくださらなければ何も生まれない、何も起こらないという意味で「虚無」(Nothing)。「エルサレム神殿」は、宗教の最高峰。宗教の百(100)。「非常に高い山」は、その場所自体よりも大切なのは、そこから見えるものです。「世のすべての国々とその繁栄ぶり」を見渡せる場所。政治の百(100)。

主イエスは空腹。お腹の中は零(0)。「欲望」が百(100)の状態。その状態で、上記の3か所(荒れ野、神殿、山の上)に行くと人は何を欲するか。「救い主」なら何を欲するか。試されているのは、そのことです。

第1問「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」で問われていることは何でしょうか。いろんな読み方がありうると思います。しかし、忘れてはならないのは、これは「イエスはキリストとしてふさわしいかどうか」のテストだということです。

つまり、問われているのは、空腹のときのイエスが「救い主」として自分に与えられた力を何のために用いようとするかです。自分のお腹を満たすためか、それとも、自分のことは後回しにして、枯れ木に花を咲かせ、飢えた人の心に喜びの福音を伝え、その人を助けることこそが救い主の使命なのか。

イエスさまは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(申命記8章3節)と、聖書の言葉の引用をもってお答えになりました。合格です。

第2問「神の子なら、神殿から飛び降りたらどうだ。天使が助けてくれる(詩編91編)と聖書に書いてある」。主イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』(申命記6章16節)とも書いてあると、聖書の言葉でお答えになりました。

「神殿」は宗教の百(100)。そこで、聖書のひとつの箇所と他の箇所の解釈とがぶつかり合う。そのとき、より正しい答えを聖書から導き出せる存在こそが「救い主」にふさわしいというのが、第2問の模範解答ではないでしょうか。

第3問「もしひれ伏してわたしを拝むなら、全世界をお前にくれてやる」。救い主というのは、要するに世界の独裁者になることなのだ。悪魔に心を売り渡し、頭を下げ、善悪を逆転させて、目的のために手段を選ばず、全世界の政治と経済を自分の思い通りに動かし、支配する。それがまさに「救い主」であり、まさに「神」である。

主イエスは「退け、サタン」と一喝されました。それが答えです。悪魔に心を売り渡してでも権力を得ることの正反対です。悪魔に頭を下げて拝まなければ得られないような権力は要らない。全く無力であることのほうを私は選ぶ。それがイエスさまの答えでした。

すると、悪魔が離れ去り、天使が来てくれました(11節)。テスト終了。結果は「合格」。天使が一緒にお祝いしてくれました。

しかし、ここで話を終わらせてはいけません。テストを受けたのは、イエスさまだけです。「メシア=キリスト=救い主」にふさわしいかどうかの見極めなので、「私たちとは関係ない」と考えがちです。しかし、それは違います。

見落とされてはならない点があります。それは、悪魔の試験の答えとしてイエスさまが引用なさった聖書の教えのすべては、私たち人間こそが守るべき教えである、ということです。この箇所の読者にとって大切なことは、わたしたちがどう生きるべきか、です。

私たちにできることを申し上げて終わりにします。

①悪魔に心を売り渡さないこと。

②「目的のために手段を選ばない」という考えを受け入れないこと。

③財産よりも権力よりも大事なものがあると信じること。

(2025年3月9日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年3月2日日曜日

奇跡を行うキリスト

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「奇跡を行うキリスト」

マタイによる福音書14章22~36節

関口 康

「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』」(26-27節)

以前もお話ししたことがあります。私がどの説教をするときも必ず開いて読む聖書註解はPrediking van het Oude/Nieuwe Testament(『旧約聖書/新約聖書の説教』)というオランダ語で書かれたシリーズです。

旧約聖書/新約聖書の説教シリーズ

なぜオランダ語の註解書なのでしょうか。答えは2つです。ひとつは、このシリーズの新約註解の全巻をまとめ買いしたとき、オランダの古書店から届いた本の見返しに、私が30年近く前から自分のライフワークとして取り組んできた神学者アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])の蔵書シールが貼られていたからです。

ファン・ルーラー教授の蔵書シール

これは奇跡だと思いました。ファン・ルーラー先生が「もっと勉強しなさい」と私を励ましてくださったと信じることにして、このシリーズを自分の説教の土台に据えることにしました。

もうひとつの答えは、このシリーズに限らずオランダの聖書註解が優れていると私が思う点は、学問と信仰のバランス感覚が素晴らしいことです。聖書という文献を信仰と教会の立場からだけでなく、学問的・科学的な立場からも読む必要があります。そのことを私はいくつかのキリスト教主義学校で聖書の授業をさせていただく中で、強く認識させられました。

学問とダイレクトに関係するのが職業です。たとえば今日の箇所はどうでしょうか。イエスが水の上を歩きました。会社の上司に呼び出されて「この箇所の意味を社員に説明しなさい」と言われたら、皆さんはどうされますか。そういう面倒くさいことに巻き込まれるのがイヤだから、「私は教会に通っています」と誰にも言えないという方がおられませんか。

子どものころの私がそうでした。教会には生まれたときから休まずに通っていました。しかし、学校では教会に通っているということをひとことも言わずに過ごしました。私は隠れキリシタンでした。高校卒業後ストレートで東京神学大学に入学し、会社勤めをせずに牧師になったことも「逃げること」を意味していると、当時から自覚していました。そんな私が、よりによって学校で教えることになりました。学校が大嫌いだった私が、学校で教える人間になりました。

この話をいつまでも続けるわけに行きません。今日の箇所についても、同じ聖書註解シリーズのマタイ福音書の巻を読みました。著者はニールセン(J. T. Nielsen)です。ベルギーのブリュッセルの聖書学者です。著者の背景は分かりません。しかし、ニールセンがハインツ・ヨアヒム・ヘルド(Heinz Joachim Held [1928-])の名前をあげて「この物語は前の物語と関連しているという H. J. ヘルドの発言には多くの意味がある」と解説しているのを興味深く読みました。

私はヘルドの存在を全く認識していませんでしたが、ウィキペディアドイツ語版にヘルドの紹介が見つかりました。ヘルド先生は1983年から1991年まで世界教会協議会(WCC)中央委員会の議長でした。世界のキリスト教会に大きな影響を与えた人物のひとりと言えると思います。

ヘルド先生が言う「前の物語」は、主イエスが5千人に食事を施した物語です。その話と今日の箇所の物語がどのように関係しているのかといえば、前の物語で弟子たちは空腹で取り乱した群衆と一緒にいたが、この物語で弟子たちは湖の波間にいます。どちらの場面でも弟子たちは追い詰められ、そのたびに主イエスに窮地を助けていただきました。これらの点で2つの物語は共通しているとヘルド先生が主張されました。とても興味深い解釈だと私は思いました。

24節から読んでみます。「ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』」

「幽霊」と訳されているのはファンタズマ(φάντασμα)。オバケです。湖を人間が歩けるはずがないという常識的な考えをもって生きて来たのに、その常識に反して水の上を歩いてくる人がいる。人間ではないとしたらオバケ以外に考えられないと結論が出た途端、恐怖の絶叫です。しかし、それがイエスさまだと分かったので弟子たちは安心したという話です。

この箇所が面白いと私に思える点は、主イエスが「どのようにして」(how)湖の上を歩いたかについての方法や仕組みは、弟子たちにとってはどうでもいいことだったということです。

恋人同士が渋谷のハチ公前でデートの待ち合わせをする。大切なことは約束の時間に間に合うことです。会いたい人に会うことです。「どのようにして」(how)ハチ公前までたどり着いたかはどうでもいいことです。それと同じだと思いました。バイクで来たかもしれないし、タクシーかもしれないし、交通費を節約してデート代を増やすために歩いて来たかもしれない。プロセスはどうでもいい。会いたいだけ、ただそれだけ。

ペトロが、イエスさまにできることなら自分もできると思って、私も水の上を歩きたいと言い出しました。やってごらんと主イエスから励まされて歩こうとしたら、ペトロは沈没しました。

すると、ペトロが「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(31節)とイエスさまから叱られます。これはまずいことになりました。私たちがもし水の上を歩けなかったら「信仰が薄い」とイエスさまから叱られなければならないのでしょうか。

私のオランダ語の註解書は、31節の主イエスの言葉を前半と後半に分けて、別の意味であると説明しています。前半の「信仰の薄い者よ」の意味は「重要な瞬間にイエスを完全に信頼できない人々」を指しています。しかし、後半の「なぜ疑ったのか」の意味は「自分の能力を疑うこと」を指しているのであって「不信仰」ではないと説明されています。とてもすっきりするし、励まされる説明だと思いました。

ペトロが主イエスに「そちらに行かせてください」(28節)とお願いしたとき「来なさい」(29節)と答えてくださったことの意味は、主イエスがペトロの力を信頼してくださったということです。ペトロが沈没したのは主イエスへの信仰が足りなかったからではなく、自分の力を信頼することができなかったからだということです。

私は2016年度の1年間は千葉英和高校の常勤講師でした。翌2017年度の1年間は「無任所教師」という名の無職でした。牧師しかしたことがなかった私が二度と牧師の働きに戻れないかもしれないと、絶望的な思いを抱いていました。しかし、私が牧師の仕事から離れていたのはその2年間だけでした。今、素晴らしい教会で働かせていただいています。これは私の奇跡です。

GReeeeN (現「GRe4N BOYZ」)の「キセキ」(2008年)の歌詞を覚えておられるでしょうか。「せめて言わせて『幸せです』と」。

奇跡の合理的な説明はできそうにありませんが、説明できないからこそ奇跡です。苦しいときにいちばん来てほしい方が来てくれた。会いたい方に会えた。それ以上の何が必要でしょうか。

弟子たちが困ったときはイエスさまが必ず駆けつけてくださる。そのことを今日の箇所は読者に強く訴えています。助けられたときは、そのあとで「幸せです」とせめて言えれば、よろしいのではないでしょうか。

(2025年3月2日 日本基督教団足立梅田教会主日礼拝)