![]() |
日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
説教「立派な信仰」
マタイによる福音書15章21~28節
関口 康
「そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた」(28節)
今日の説教題は「立派な信仰」です。
この表現が朗読箇所の28節に出てきます。聖書の言葉です。イエス・キリストの言葉です。
しかし、この題をご覧になったとき、皆さんはどのようにお感じになったでしょうか。次の5つのうちからお選びください。
①ぞっとした、②悲しくなった、③腹が立った、④教会に行きたくなくなった、⑤翻訳の誤りかもしれないので説教を聞いてみたいと思った。
⑥どれでもない、も加えておきます。説明が必要でしょう。
昨日観ていたインターネットの番組でも繰り返し語られていました。今はどういう時代なのかを考えるときに引き合いに出されるのが「宗教ゼロ」という言葉です。
ヨーロッパがそういう状態だと言われます。宗教だとか信仰だとか言われても何をどう考えればよいか分からないし、身につかない。この感覚は、私もかなりの面で共有しています。
それなのに教会の看板に「立派な信仰」と書いてあるのは全く理解に苦しむ、というような否定的な感情を呼び起こすために、あえて選ばせていただきました。お詫びしなくてはなりません。
翻訳の問題かどうかは、日本聖書協会の歴代聖書を読み比べるだけで分かります。
明治元訳(1887年) 大正改訳(1917年) 口語訳(1954年) 新共同訳(1987年) 聖書協会共同訳(2018年) |
婦(をんな)よ、爾(なんぢ)の信仰は大いなり。 をんなよ、汝の信仰は大いなるかな。 女よ、あなたの信仰は見上げたものである。 婦人よ、あなたの信仰は立派だ。 女よ、あなたの信仰は立派だ。 |
ギリシア語の原文は「Ὦ γύναι, μεγάλη σου ἡ πίστις」(オー・グナイ、メガレー・スー・ヘー・ピスティス)です。「立派」「見上げたもの」「大いなるもの」と訳されているのは、μέγας(メガス)の女性単数与格μεγάλη(メガレー)です。
これはメガロポリス、メガバイト、メガトンパンチなどの「メガ」(mega)の語源です。「メガ」は現在の国際単位の10の6乗(100万)です。「キロ」は10の3乗(1千)、「ギガ」は10の9乗(10億)、「テラ」は10の12乗(1兆)です。今日の箇所の「メガス」が「100万」を意味するということではありません。
呼びかけの言葉も翻訳が難しいです。意味は正しくても「をんなよ」「女よ」「婦人よ」は失礼な感じだし、「女性よ」も微妙。「おねえさん」や「おくさん」は論外。そもそも「あなた」と呼ばれるのが不愉快だと言われることもあります。「お前」は論外中の論外。
「おたくさま」は意外なほど可能性があるかもしません。
「おたくさまの信仰はメガトンパンチ級ですね」。
内容に入ります。登場するのは主イエス、弟子たち、そして「カナンの女」です。説明が必要なのは「カナンの女」です。結論から言えば、当時の差別語です。そのような言葉が意図的に用いられています。
「カナン」は、エジプトにいたユダヤ人がモーセに率いられて戻って来た先祖の地の古い呼び名です。ならば「カナン人」がなぜ差別語なのかといえば、いま申した歴史が関係します。
エジプトから戻って来たユダヤ人の戦争相手が「カナン人」だったからです。あくまでユダヤ人の立場からすれば、ということになりますが、彼らがいなかった間にカナンに住むようになった人たちが「カナン人」です。現代のパレスチナ問題さながらです。
しかし、この女性がユダヤ人と戦争した時代の「カナン人」の純血を受け継いでいるというような話ではありません。もっと広い意味です。そして差別的な意味です。説明すること自体に私は苦しみを感じます。「外見や方言などで、見る人が見れば分かる違いを持った人」というぐらいにとどめます。
この女性と主イエスが出会った場所は「ティルスとシドンの地方」(21節)です。巻末の聖書地図「6」の最北端にこれらの地名が記されています。この女性がしたのは、主イエスに向かってひたすら叫び続けることでした。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」(22節)。
「しかし、イエスは何もお答えにならなかった」(23節)とあります。そのとき主イエスが立ち止まられたかどうかも、顔を向けられたかどうかも記されていません。どちらもなさらなかった可能性を私は考えます。実際の場面を想像すると、その理由がなんとなく分かります。
私が抱くイメージは、通りすがりで手早く解決するとは考えにくい深刻な問題を抱えている相手に安易にかかわることが、かえって相手を傷つける場合がある、ということです。
しかしそれでも、なぜ立ち止まってくださらないのですか、振り向いてもくださらないのですか、冷たすぎますよ、イエスさま、と言いたくなる場面であることは間違いありません。
主イエスの弟子たちが「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と言っています(23節)。この「ついて来ます」で立ち止まっていなさそうな雰囲気が伝わってきます。弟子たちが厄介な存在を嫌がって舌打ちしたかどうかも記されていませんが、近い感じです。
そのとき主イエスが「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった(24節)とありますが、これが弟子たちに対するお答えであって、その女性に対してではなかったことは、かろうじて慰めです。本人に直接言っていません。こういうことを本人に言ってはいけません。
しかし、女性がひれ伏して「主よ、どうかお助けください」と懇願したとき(25節)、主イエスは口を開いてくださいました。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)。
ひどい答えかどうかは考え方次第です。主イエスは人を「魚」や「麦」にたとえる方ですから、「小犬」もたとえではないでしょうか。「大きな犬」ではなく「小犬」が選ばれていることに、ユーモアの要素が含まれているかもしれません。「子供」も、「小犬」と背格好が同じぐらいの幼児をイメージしてみると良さそうです。
「大変申し訳ありません。残りのパンが1個しかありません。うちの子(大きな子供を含む)が、お腹が空いたと泣いておりまして、小犬さまにお譲りできるものがありません」ぐらいではないでしょうか。「お引き取りください」と、はねつけるような言い方ではありません。
しかし、そのときこの女性から返ってきた答えに主イエスが感動されました。
「女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑(くず)はいただくのです』」(27節)。
こう言いたいのではないでしょうか。
「たしかに私は、あなたが守るべき神の家族に加えていただくに値しない、ただの通りがかりの小犬です。そんなことは分かっています。しかし、あなたのパンが必要な者です。そしてパン屑(くず)もパンです。形が変わっていようと、残りものだろうと、床に落ちていようと、誰かに踏みつけられようと、パンはパンです。それを私にください。私はあなたの食卓に共にあずかるべき者です。あなたのものは私のものです。ここから一歩も下がれません。」
この確信に満ちた求めを主イエスが「これはメガトンパンチの信仰だ」と受け入れてくださったのです。
「立派な信仰」のイメージが変わったでしょうか。良い方向でご理解いただけますと幸いです。
(2025年2月23日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)