2025年2月23日日曜日

立派な信仰

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「立派な信仰」

マタイによる福音書15章21~28節

関口 康

「そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた」(28節)

今日の説教題は「立派な信仰」です。

この表現が朗読箇所の28節に出てきます。聖書の言葉です。イエス・キリストの言葉です。

しかし、この題をご覧になったとき、皆さんはどのようにお感じになったでしょうか。次の5つのうちからお選びください。

①ぞっとした、②悲しくなった、③腹が立った、④教会に行きたくなくなった、⑤翻訳の誤りかもしれないので説教を聞いてみたいと思った。

⑥どれでもない、も加えておきます。説明が必要でしょう。

昨日観ていたインターネットの番組でも繰り返し語られていました。今はどういう時代なのかを考えるときに引き合いに出されるのが「宗教ゼロ」という言葉です。

ヨーロッパがそういう状態だと言われます。宗教だとか信仰だとか言われても何をどう考えればよいか分からないし、身につかない。この感覚は、私もかなりの面で共有しています。

それなのに教会の看板に「立派な信仰」と書いてあるのは全く理解に苦しむ、というような否定的な感情を呼び起こすために、あえて選ばせていただきました。お詫びしなくてはなりません。

翻訳の問題かどうかは、日本聖書協会の歴代聖書を読み比べるだけで分かります。

明治元訳(1887年)

大正改訳(1917年)

口語訳(1954年)

新共同訳(1987年)

聖書協会共同訳(2018年)

婦(をんな)よ、爾(なんぢ)の信仰は大いなり。

をんなよ、汝の信仰は大いなるかな。

女よ、あなたの信仰は見上げたものである。

婦人よ、あなたの信仰は立派だ。

女よ、あなたの信仰は立派だ。

ギリシア語の原文は「Ὦ γύναι, μεγάλη σου ἡ πίστις」(オー・グナイ、メガレー・スー・ヘー・ピスティス)です。「立派」「見上げたもの」「大いなるもの」と訳されているのは、μέγας(メガス)の女性単数与格μεγάλη(メガレー)です。

これはメガロポリス、メガバイト、メガトンパンチなどの「メガ」(mega)の語源です。「メガ」は現在の国際単位の10の6乗(100万)です。「キロ」は10の3乗(1千)、「ギガ」は10の9乗(10億)、「テラ」は10の12乗(1兆)です。今日の箇所の「メガス」が「100万」を意味するということではありません。

呼びかけの言葉も翻訳が難しいです。意味は正しくても「をんなよ」「女よ」「婦人よ」は失礼な感じだし、「女性よ」も微妙。「おねえさん」や「おくさん」は論外。そもそも「あなた」と呼ばれるのが不愉快だと言われることもあります。「お前」は論外中の論外。

「おたくさま」は意外なほど可能性があるかもしません。

「おたくさまの信仰はメガトンパンチ級ですね」。

内容に入ります。登場するのは主イエス、弟子たち、そして「カナンの女」です。説明が必要なのは「カナンの女」です。結論から言えば、当時の差別語です。そのような言葉が意図的に用いられています。

「カナン」は、エジプトにいたユダヤ人がモーセに率いられて戻って来た先祖の地の古い呼び名です。ならば「カナン人」がなぜ差別語なのかといえば、いま申した歴史が関係します。

エジプトから戻って来たユダヤ人の戦争相手が「カナン人」だったからです。あくまでユダヤ人の立場からすれば、ということになりますが、彼らがいなかった間にカナンに住むようになった人たちが「カナン人」です。現代のパレスチナ問題さながらです。

しかし、この女性がユダヤ人と戦争した時代の「カナン人」の純血を受け継いでいるというような話ではありません。もっと広い意味です。そして差別的な意味です。説明すること自体に私は苦しみを感じます。「外見や方言などで、見る人が見れば分かる違いを持った人」というぐらいにとどめます。

この女性と主イエスが出会った場所は「ティルスとシドンの地方」(21節)です。巻末の聖書地図「6」の最北端にこれらの地名が記されています。この女性がしたのは、主イエスに向かってひたすら叫び続けることでした。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」(22節)。

「しかし、イエスは何もお答えにならなかった」(23節)とあります。そのとき主イエスが立ち止まられたかどうかも、顔を向けられたかどうかも記されていません。どちらもなさらなかった可能性を私は考えます。実際の場面を想像すると、その理由がなんとなく分かります。

私が抱くイメージは、通りすがりで手早く解決するとは考えにくい深刻な問題を抱えている相手に安易にかかわることが、かえって相手を傷つける場合がある、ということです。

しかしそれでも、なぜ立ち止まってくださらないのですか、振り向いてもくださらないのですか、冷たすぎますよ、イエスさま、と言いたくなる場面であることは間違いありません。

主イエスの弟子たちが「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と言っています(23節)。この「ついて来ます」で立ち止まっていなさそうな雰囲気が伝わってきます。弟子たちが厄介な存在を嫌がって舌打ちしたかどうかも記されていませんが、近い感じです。

そのとき主イエスが「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった(24節)とありますが、これが弟子たちに対するお答えであって、その女性に対してではなかったことは、かろうじて慰めです。本人に直接言っていません。こういうことを本人に言ってはいけません。

しかし、女性がひれ伏して「主よ、どうかお助けください」と懇願したとき(25節)、主イエスは口を開いてくださいました。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)。

ひどい答えかどうかは考え方次第です。主イエスは人を「魚」や「麦」にたとえる方ですから、「小犬」もたとえではないでしょうか。「大きな犬」ではなく「小犬」が選ばれていることに、ユーモアの要素が含まれているかもしれません。「子供」も、「小犬」と背格好が同じぐらいの幼児をイメージしてみると良さそうです。

「大変申し訳ありません。残りのパンが1個しかありません。うちの子(大きな子供を含む)が、お腹が空いたと泣いておりまして、小犬さまにお譲りできるものがありません」ぐらいではないでしょうか。「お引き取りください」と、はねつけるような言い方ではありません。

しかし、そのときこの女性から返ってきた答えに主イエスが感動されました。

「女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑(くず)はいただくのです』」(27節)。

こう言いたいのではないでしょうか。

「たしかに私は、あなたが守るべき神の家族に加えていただくに値しない、ただの通りがかりの小犬です。そんなことは分かっています。しかし、あなたのパンが必要な者です。そしてパン屑(くず)もパンです。形が変わっていようと、残りものだろうと、床に落ちていようと、誰かに踏みつけられようと、パンはパンです。それを私にください。私はあなたの食卓に共にあずかるべき者です。あなたのものは私のものです。ここから一歩も下がれません。」

この確信に満ちた求めを主イエスが「これはメガトンパンチの信仰だ」と受け入れてくださったのです。

「立派な信仰」のイメージが変わったでしょうか。良い方向でご理解いただけますと幸いです。

(2025年2月23日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年2月9日日曜日

毒麦のたとえ

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「毒麦のたとえ」

マタイによる福音書13章24~30節

関口 康

「主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい』」(29-30節)

今日の聖書の箇所に記されているのは、主イエスがお語りになった「毒麦のたとえ」です。

毎週の説教題を、役員がたの中のお2人が交代で、教会の外の看板に書いてくださっています。「毒」の字が看板に貼り出されるのは不適切だろうかと考えなかったわけではありません。

「毒」の意味は「生命または健康を害するもの」(岩波書店『広辞苑』第4版)。「毒」という漢字の由来については、漢和辞典の出版社の大修館書店の「漢字文化資料館」というサイトで、次のように説明されていました。

「一番伝統的な説明は、『毒』という漢字は、『屮』と図のような漢字〔上に『士』、下に『毋』でひとつの字:関口注〕から成り立つ、というものです。図の漢字はさらに、『士』と『毋』に分解されます。『士』は『立派な男性』という意味、『毋』はよく見ると『母』とは違って、『~ではない』という意味で、図の漢字は『立派ではない』『みだら』という意味になるそうです」「漢字文化資料館」(←ここをクリックすると開きます)

今申し上げているのは漢字の話です。ギリシア語で書かれた新約聖書の内容とは直接的な関係はありません。しかし、漢字の多くは象形文字、すなわちモノやカタチを点や線で表す文字です。漢字は「見た目」が重要です。それが漢字文化の特徴です。

私が興味を感じたのは「毒」と「麦」の字が似ていることです。見た目の問題です。「毒毒」か「麦麦」か「麦毒」と書いてあっても、近くまで来ないと見分けがつきません。たまには意図的に教会の看板に間違った漢字を書いておくと、気が付いた方が教会に電話をくださったりすれば、そこから話の花が咲くかもしれません。

今日の箇所は漢字の話とは関係ないはずですが、不思議なほどつながります。

ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て実ってみると、毒麦も現れました。そこで僕(しもべ)たちが主人に「毒麦を抜き集めましょうか」と進言したところ、返って来た答えは「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」ので「両方とも育つままにしておきなさい」(29~30節)というものだったという話です。

言われていることは、良い麦と毒麦は見分けがつきにくいので、収穫までそのままにしておきましょうということです。つまり、見た目の問題です。「毒」の字と「麦」の字が、遠くからだと見分けがつかないことに通じるではありませんか。

たとえ話の内容はそれだけです。しかし、いくらなんでも、これだけで話を終わらせるわけには行きません。

主イエスはこれを「天国のたとえ」(24節)として語られました。しかも、この場合の「天国」は西暦1世紀のユダヤ教が「神」の名をみだりに唱えてはならないという意図で「神」を「天」と言い換えたことと関係があると考えられています。いま申し上げたことの意味は、「神」も「天」も「神の国」も「天国」もすべて同じ意味であり、「天国のたとえ」は「神のたとえ」であるということです。

ここまでお話しするとそろそろ私たちの心がざわつき始めるでしょう。これは「天国のたとえ」だが、「神のたとえ」であるという。神は世界と人間を創造されたという。しかし、その世界に神の敵が現れて「毒麦」を蒔いて行ったという。しかし、良い麦と毒麦は見分けがつきにくいので収穫まで毒麦を抜かないでおこうという。もしそうなら、これは「麦」の話ではなく「人間」の話だろうと考える他はありません。つまり、これは「私たち」の話です。

私たちの心が最もざわつくのは、このたとえ話の結末でしょう。「刈り入れの時、『まず、毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と刈り取る者に言いつけよう」(30節)と言われています。「毒麦」は最終的に選別され、捨てられ、焼かれるという話です。

ここまで聞いて誰もが第1に考えるのは「自分はどちらなのか」ということでしょう。神の倉に納められる「良い麦」のほうなのか、それとも、捨てられ焼かれる「毒麦」のほうなのか。

第2に考えるのは、自分以外の「あの人」はどちらなのか。いろんな人間関係の中で出会う厄介な「あの人」。良い麦畑に闇夜の忍者が蒔いた「毒麦」とはだれなのか。「あの人」のことか。

第3の問いは、最も深刻です。神はなぜ「良い麦」だけでなく「毒麦」を創造されたのか。世界に多様な存在があり、互いに違いがあることまではなんとか理解できる。しかし、なぜ「みんな違ってみんないい」でダメなのか。なぜ「悪い」があるのか。「悪」がなぜ世界に存在するのか。神はなぜ「悪」の存在を許しているのか。これらの問いは、神義論(Theodicy)と呼ばれる永遠の謎です。

私は以前から、イエスのたとえの説教は難しいと感じてきました。今回改めて調べていく中で「たとえ」(parable)の範囲を定めること、とくに「寓喩」(allegory)との違いをどう考えるかなど、難しい問題が待ち受けていることが分かりました。付け焼刃では歯が立ちません。

それと私は、人間を植物や動物にたとえることに抵抗があります。主イエスが最初の弟子たちに呼びかけた「人間をとる漁師にしよう」も、人間が「魚」にたとえられています。「牧師」の「師」の字を問題にする人の声はよく聞きます。しかし、私が気になるのは「牧」のほうです。教会員を「羊」にたとえる表現です。

神と私たち、主イエスと私たちの関係が「漁師」と「魚」や「羊飼い」と「羊」の関係だというならまだ我慢できるものがあります。しかし、牧師と教会員の関係がそうであると連想されそうな言葉は、いちいち気になります。「人間は魚でも羊でもありません」と言いたくなります。

いま述べた「難しい」とか「抵抗がある」とかいう私の気持ちの問題は無視していただいて構いません。私が申し上げたいのは、主イエスのたとえ話を読むことには十分な注意と熟考が必要であるということです。

しかし、今日の箇所は怖がる必要はありません。メッセージは明確です。核心部分は「両方とも育つままにしておきなさい」(30節)です。

「事前に選別してはいけません」ということです。だれが「良い麦」で、だれが「毒麦」なのかは誰にも分かりません。私たちは知る必要がないことです。

「選別は神がなさることです」とも言わないほうがいいです。それは言い過ぎです。「あなたが神の何を知っているのか」と言われても仕方ありません。

これは「優性思想」の問題に結びつきます。現代の深刻な問題です。科学技術の進歩の名のもとに、遺伝子まで人為的に操作することが可能になりました。優れた人間だけを残し、そうでない人間は取り除くべきであるという明白な差別思想が、私たちの目の前に横たわっています。

イエス・キリストはそのような選別に真っ向から反対なさっています。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と言われました(マタイによる福音書5章45節)。

善と悪の区別が取り払われたという意味ではありません。善は善であり、悪は悪です。しかし、社会の中にも、この私の中にも、善と悪、正義と不正が隣り合わせで共存しています。「ここは悪だから」とそこだけ取り除くことはできないほど、互いにからみ合い、混ざり合っています。

だからこそ、私たちには、罪の「赦し」が必要なのです。「赦し」と「許し」の漢字の区別は、内容の違いをあらわしています。

(2025年2月9日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)