2024年11月23日土曜日

神の計画の確かさ

愛恵まちづくり記念館(東京都足立区関原1-21-9)

(※以下は、当教会と歴史的に深い関係にある「愛恵学園」(1930-1990)の関係者の集い(2024年11月23日、愛恵まちづくり記念館にて開催)の開会礼拝での説教(要旨)です)


説教「神の計画の確かさ」

ローマの信徒への手紙8章26~30節

関口 康

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)

開会礼拝のために選ばせていただきました聖書の箇所は、使徒パウロのローマの信徒への手紙8章26節から30節までです。

「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(26節)。

この「霊」は聖霊です。西暦1世紀に「三位一体」という言葉はありませんでした。しかし、西暦1世紀には「聖霊」はまだ神ではなかったということではありません。26節の意味は、「神が弱いわたしたちを助けてくださる」ということです。

そして「わたしたち」は人間です。パウロによると、わたしたち人間の弱さは「どう祈るべきかを知らない」ことにあります。しかしこれは、人間は祈る言葉を全く知らないとか、祈ることは不可能であるとか、祈りは無意味であるということではありません。

そのようなことよりも、「言葉がない」という日本語表現のほうに近いです。私も牧師の末席を汚しています。教会員のご家族の不幸。教会員ご自身の事故や病気。大規模な自然災害。人為的な犯罪や破壊行為。そして戦争。何か言わなければ、言葉にしなければ、と思いながら「言葉がない」。祈る言葉も見つからない。神に何を言えばいいか分からない。

そのようなとき「霊(なる神)がわたしたちを助けてくださる」とパウロは言います。しかし、そのとき神は「あなた、どうせ何も言えないんでしょ。それなら黙っていなさいよ。私が代わりにしゃべってあげるわよ」という調子で、神ひとりが饒舌にお語りになるわけではありません。むしろ神も沈黙されます。なぜでしょうか。

わたしたちが「言葉がない」とうつむくのは、傷つき苦しむ当事者のことを「知っているふりをしたくない」からでしょう。その人に苦しみの意味を説明してあげて、解決方法まで教えてあげれば事が足りるなどとはとても思えないから「言葉がない」わけでしょう。

神はそのようなわたしたちの気持ちに寄り添ってくださる仕方で沈黙なさるのです。わたしたちと一緒にうめいてくださるのです。神もまた「知っているふり」をなさらないのです。説明もなさいません。

この「わたしたちはどう祈るべきかを知らない」(26節)について、16世紀のドイツの宗教改革者マルティン・ルターが『ローマ書講義』(1515年 / 1516年)で次のように解説しています(松尾喜代司訳。英語版はAmerican Edition)。

「たとい、一見われわれの祈願に反することが生じても、それは決して悪いしるしではなく、むしろ最もよいしるしである。それは、われわれの祈願に対して、すべてが全くねがいどおりに与えられたならば、決してよいしるしではないのと同様である」

“It is not a bad sign, but a very good one, if things seem to turn out contrary to our request. Just as it is not a good sign if everything turns out favorably for our request.”

その意味は、「神の計画とご意志は人間の計画と意志をはるかに超えたものである」ということです。ルターは次のように続けています。

「神は、その賜物を賜う前に、まずわれわれのうちに有るものを破砕し・撃滅するのが神の性質である」

“It is the nature of God first to destroy and tear down whatever is in us before He gives us His good things.”

ルターの言うとおりです。もしすべてがわたしたちの祈りどおり、わたしたちのリクエストどおりになるというなら、その祈りは魔法使いの魔法杖です。その杖を振れば、どんな夢でも叶えられる。

ルターによると、わたしたちのリクエストどおりになることはバッドサインであり、リクエストどおりにならないほうがベリーグッドサインであり、そもそも祈る前にわたしたちが抱いているリクエストそのものを神はデストロイなさるというわけです。

ルターはずいぶん激しいことを言います。しかし、説得力があります。

それでパウロは言います。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)。

ここで「わたしたちは知っています」とパウロが書いていることの意味は、ユダヤ教の伝統や初期キリスト教の教えと合致しているということです。だれでも知っている普遍的真理であるとか一般論ではありません。パウロはあくまで「神を愛する者たち」に語りかけています。

しかも、前後の文脈を考えれば、パウロが言う「万事が益となる」の「万事」の内容の大半は「苦しみ」です。「言葉がない」と音を上げるほどの苦しみの日々が、パウロの言う「万事」です。世の中で、社会の中で、人生そのものの中で、「楽しい」と感じることはほとんどなく、「苦しいことだらけだ」と絶望しかけている信仰者にとっての「万事」です。

しかし、その苦しみもまた、いや、その苦しみこそをわたしたちの「益」にしてくださるのが、わたしたちの神であり、神の計画である、ということをパウロが記しています。

「お前が言うな」と、どうかお怒りにならないでください。大先輩の皆さまはきっと、「パウロの言うとおりだ」と受けとめてくださると思います。

「日本の教会がピンチである」と多くの人が嘆きます。そういう言葉をよく聞くでしょう。しかし、私は全く同意できません。

ルターの言うとおりです。わたしたちのリクエストどおりにならないことのほうがベリーグッドサインです。「日本の教会がピンチである」と言う人たちは、自分のリクエスト通りにならないことに苛立っているだけです。わたしたちのリクエストは神がデストロイなさるのです。

しかし、気を付けなくてはならないことがあります。26節に戻りますが、「霊が弱いわたしたちを助けてくださる」と言われている場合の、神がわたしたちを助けてくださる方法は、《神が100%働いてくださって、人間の働きは0%になる》のではありません。

「言葉が無い」だの「どう祈るべきかを知らない」だのと言い訳ばかりして役に立たない人間はクビにして「お前はもう黙っていろ。何もするな。わたしが全部するから見ているだけでいい。わたしの邪魔をするな」と、人間の代わりに神がすべてしてくださるわけではありません。

あるいはまた、《人間が99%働いて、神が1%付け加えてくださる》というのでもありません。

教団とか教派とかの文脈に身を置くと、イヤな話を繰り返し耳にします。「自立できないような小さな教会を維持したがるのは人間の願望にすぎない。そういう教会は解散するほうが神の御心である。一般企業と同じように、教会においても『選択と集中』を推し進めるべきである」などと言い出す人たちがいます。ひどいと思いませんか。

私は足立梅田教会に来させていただいたことを幸せに思っています。皆さん「やる気満々」ですから。わたしたちの神は「やる気満々」の人々を見捨てる神でしょうか。そんなことありえないですよ。

「聖霊なる神」が弱いわたしたちを助けてくださる方法は《神100%、人間100%》です。どんなことがあっても心が折れず、希望を捨てない人々を、神は決して見捨てません。

今日お集まりの皆さんの教会も同じです。「小さな教会を畳むことが神の御心である」などと、どうかおっしゃらないでください。心が折れそうなときは足立梅田教会を思い出してください。私もぜひ、皆様のお仲間に加えていただきたくお願いいたします。

(2024年11月23日 野比の会(愛恵学園の会)開会礼拝、於 愛恵まちづくり記念館)