2024年10月27日日曜日

私たちが神をおそれる理由

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「私たちが神をおそれる理由」

マタイによる福音書10章26~33節

関口 康

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(28節)。

今日の箇所はマタイによる福音書10章26節から33節までです。10章1節に「イエスが十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった」(1節)とあります。多くの弟子の中から12人の使徒を主イエスご自身がお選びになり、世の中へと派遣されました。

主イエスはすべてをおひとりで抱え込んで、ほかのだれにも何もお任せにならないような方ではありません。神のみわざを共に担う仲間を集め、その人々に何を語り、何をなすべきかを教え、ご自身のみわざをお託しになる方です。

その一点において、主イエスは教会の牧師と同じです。ユダヤ教のラビとも共通しています。共通点は、上下関係ではないことです。役割分担です。

当時、主イエスは「およそ30歳」(ルカ3章23節)でした。使徒を「弟子」とも言いますが、ペトロたちが主イエスと年齢が大きく離れているとは考えにくいです。12人の中に主イエスよりも年上の人がいたかどうかは分かりませんが、いたからといっておかしいとも言えないでしょう。

皆さんがよくおっしゃるではありませんか、「役員会の中で牧師がいちばん若い」と。主イエスと牧師が「同じ」と申し上げているのは、その意味です。

私は皆さんの上司ですか、皆さんは私の部下ですか、そうではないでしょう。年齢が上だから先輩、下だから後輩、というような枠組みも、主イエスと弟子たちの関係とは無関係です。

「教える」というのも、学校の教員が生徒に対してすることとは違います。「まだ知らないことを知ってもらう」という点は同じかもしれませんが、「まだ知らないこと」の意味が違います。教科書に書いてあるとか、大人たちは知っていることを子どもたちにも分かってもらうことが学校の働きだとすれば、主イエスが弟子たちにされたのはそういうことではありません。

主イエスが弟子たちに「教えた」のは、このわたしは何者なのか、何を語り、何をするために今ここにいるか、です。わたしはキリストである。わたしは救い主である。わたしは神の言葉を伝えに来たのである、と。

それを「教える」ことで何をしておられるかといえば、このわたしと一緒に生きてほしい、わたしの目指す目標を共有し、みわざを共に担ってほしいと訴えることです。

「いやいや、学校の教師と生徒の関係も、会社の上司と部下の関係も、それと同じですよ」とおっしゃる方がおられるかもしれません。違いを強調する必要はないかもしれません。夢や理想を言葉にして伝え、力を合わせて実現する。「それは学校だって会社だって同じです」と言われれば、たしかにそうかもしれません。

一昨日、久しぶりにラーメン店に行きました。看板に「昭和29年創業」と書かれていました。1954年です。今年70周年。昨年70周年のわたしたちの教会とほぼ同じです。

帰宅後ネットで調べたら、最初は「わずか6坪の雨漏りのする食堂」だったが、現在は全国総店舗数400、年間延べ利用者数3500万人に成長。次なる目標は1000店舗。さらに海外への進出を目指し、「日本のらーめん文化をグローバルスタンダードにしたい」と書いてありました。今の社長さんは創業者の息子さんです。

聖書と関係ない話をしていると思っていません。主イエスと弟子たちの関係、そして主イエスと教会との関係はどういうものなのかを考えるための材料を提供しています。

今日の箇所は、いまご説明した話の流れの中に位置づけられています。これは主イエスが弟子たちを世の中に派遣されるに際しての激励の言葉です。そして、これはこのまま今のわたしたちに当てはまる言葉です。

聖書学者の言葉を借りていえば、今日の箇所(26~33節)の趣旨は「イエスの名を告白するとき、人を恐れないようにと勧めている」(J.T. ニールセン)、「総じて敵対的な人々を前にしてイエスを告白すべき弟子たちの教会に対し、慰めを語りかけようとしている」(E. シュヴァイツァー)などと説明されています。

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」(26節)が「人々を恐れてはならないこと」の理由になっているのが、どうつながるのか分かりにくいかもしれません。

教会に敵対する人たちには大なり小なり隠しごとがあるが、そういうのは必ず発覚するものなので、そこで転んで失敗するでしょう、というような意味ではありません。そうではなく、「信仰を告白すること」自体を指していると読むべきです。

信仰告白とは「公に言い表すこと」です。隠れたまま、隠されたままがいつまでも続くことはないと、主イエスご自身がおっしゃっているのです。

「明るみで言いなさい」「屋根の上で言い広めなさい」も同じです。信仰を告白しなさい、公に言い表しなさい、ということです。

やや個人的な話になって申し訳ありません。思い出すことがあります。私の息子が中学生の頃だったので、15年ほど前です。2010年前後です。私は松戸の改革派教会で牧師をしていました。当時に限ったことではありませんが、特に当時、私は伝道に行き詰まりを感じていました。それで、中学生の息子に「お父さんどうしたらいいかね」と相談したのです。

息子の返事は即答でした。「商店街の真ん中で説教すれば?」と言いました。息子の言う通りだと思いました。

息子が中学生、娘は小学生。妻は福祉施設勤務。私は日曜日は教会。国民の祝日は、教団でいえば教区や支区のようなところ、改革派教会では中会・大会と言いますが、その会議だ修養会だ。それ以外にも自主的な研究会だ。

私はそのようなことの「準備」と称して、いちばん近くにいる家族に背を向けて、牧師室に引きこもって、パソコンの画面をにらみつけて書類を作ることに明け暮れていました。

その私の姿を、息子は苦々しく思っていたのでしょう。もっと教会の外へと出ていけばいい。商店街の真ん中で説教すればいい。内向きではなく外向きに語るべきだ、と。

その後、2016年から私は複数のキリスト教主義学校の聖書科講師として働きました。繰り返し思い出すのが息子の言葉でした。「商店街の真ん中で説教している」気持ちで授業をしました。「明るみで言いなさい」「屋根の上で言い広めなさい」も、趣旨は同じです。

「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことができる方を恐れなさい」(28節)とあるのは、信仰告白に伴う迫害や攻撃を恐れるなという主イエスからの激励の言葉です。殉教の可能性すらある中でも恐れるな。

聖書学者エドゥアルド・シュヴァイツァーが「魂」は「生命」と訳すべきであると提案しています。我々の信仰によれば、肉体の死をもってわたしたちの生命が終わるわけではないからです。神と共に生きる永遠の生命があるからです。

わたしたちと神との関係は、だれにも妨げることはできません。神がわたしたちを愛してくださるというのですから、神とわたしたちの関係はいつまでも切れません。神と共に生きることを指して「永遠の生命」というのです。

「わたしたちが神をおそれる理由」は、わたしたちが神の顔色うかがいをしなければならないからではありません。愛するに値しない罪深いこの私をも愛してくださる神の愛の大きさに恐れおののくのです。

(2024年10月27日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)