2024年9月8日日曜日

世を愛する神の愛 北村慈郎牧師

北村慈郎牧師(2024年9月8日 日本基督教団足立梅田教会)

説教「世を愛する神の愛」

ヨハネによる福音書3章16~21節

北村慈郎牧師(当教会第2代牧師)          

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)

今日は足立梅田教会創立70周年記念礼拝の説教を頼まれまして、私はここに立っています。

私は現在82歳なので、足立梅田教会で私が説教するのはおそらくこれが最後ではないかと思います。そこで今日は、私がこれが聖書の使信(メッセージ)の神髄ではないかと思わされていることを、この説教でみなさんにお話しさせてもらいたいと思います。

先ほど司会者に読んでいただいたヨハネによる福音書3章16節は、神の愛を語っている新約聖書の中でも最も有名な言葉の一つです。

このヨハネ福音書3章16節は、古くから「小福音」と呼ばれてきました。この3章16節一節の言葉の中に、イエスさまがもたらされた喜ばしき音ずれである「福音」が見事に言い表されているという意味で、この言葉を「小福音」と呼んで来たのです。

ここに語られています「世を愛する神の愛」は、ヨハネ福音書とヨハネの手紙全体を貫いている根本的なテーマの一つですが、そのことがこの箇所ほど明確に出ているところは他にはありません。

このヨハネによる福音書3章16節は、その前に記されていますイエスとニコデモとの対話(3章1~15節)を受けて記されています。

イエスとニコデモとの対話で中心になる言葉は、3節のイエスの言葉です。「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新しく生まれなければ神の国を見ることはできない』」という言葉です。

その後、ニコデモはイエスに「『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか』」(4節)と頓珍漢な質問をします。すると、ニコデモにイエスは答えて、このようにおっしゃいます。

「『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれるものは肉であり、霊から生まれた者は霊である。「あなたがたは新しく生まれなければならない」とあなたがたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたがたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである』」(5~8節)。

このニコデモとイエスの対話を受けて、ヨハネによる福音書の記者は16節で、田川建三訳で読みますと、「何故なら神はそれほどに世を愛して下さったので、一人子なる御子を与え給うたのだ。彼を信じる者がみな滅びることなく、永遠の生命を持つためである」と語られているのです。

16節に続く17節では「世」(コスモス)という言葉が3回も出てきます。これも田川訳で読みますが、「というのも、神が御子を世に遣わしたのは、世を裁くためではなく、世が彼によって救われるためである」。

ここに「世が彼(イエス)によって救われるためである」と言われています。ヨハネ福音書の「世」は、神に反するものを意味する場合と、単に「現実に存在しているこの世界」というだけの意味に用いることも多いと言われています。そしてこの3章16節、17節の「世」は「現実に存在しているこの世界」を意味していると言えます。

「現実に存在しているこの世界」、現在の世界の現実を皆さんはどう思っているでしょうか。

今年の7月、8月は日本では大変暑い日が続きました。7月、8月の気温としては今年が最高を記録したと言われます。気候温暖化による気候危機が叫ばれるようになってだいぶ経ちますが、CO2削減も進まず、このままですと海の水位が上がって水没する国や都市が出るに違いありません。神が人類にそれを守るべく与えて下さった地球環境を、人類は守るどころか、自らの欲求の充足を求めるあまり破壊してしまっています。

また世界の国々は、20世紀に二つの世界大戦を経験しながら、21世紀になっても戦争はなくならず、この数年はロシアによるウクライナへの軍事侵攻とイスラエルによるガザへの軍事攻撃をはじめ、世界の各地で軍事衝突が起きています。

日本の国も、かつてアジアへの侵略戦争と太平洋戦争によって、アジアの国々をはじめ諸外国の約2000万人の人々の命を奪い、その戦争と戦災によって約300万人の日本人の命を失った戦争犯罪を犯しました。

戦後、その反省に立って、日本の国は二度と再び戦争はしないとの決意を日本国憲法第9条に込めたはずにもかかわらず、台湾有事を理由に、現在の日本政府はアメリカと一体となって日米軍事同盟を強化し、防衛費予算を倍増して軍備増強を進めています。

また、新自由主義的な資本主義が覇権主義的な力を発揮し、国家を越えて資本が世界を支配しています。そのためにグローバルサウスの人々は今も貧困によって苦しんでいます。グローバルサウスの人々だけでなく先進国と言われる国々でも経済格差が広がり、生活困窮者が増えています。様々な差別もあり、一人一人の人間の尊厳が踏みにじられています。

これが現在の世界の現実の一面です。そして私たちはこの現実の世界をその一員として日々生きているわけです。しかもこの世界の現実は命に溢れているというよりは、滅びと死に向かって動いているように思われます。

ヨハネによる福音書が記す「世」も、現代の世界の現実と変わらないと思われます。「神の愛」はそのような「世」を、その独り子を与えるほどに神は愛されたと言うのです。そして、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と言われているのです。これが、ヨハネによる福音書が語っている「世を愛する神の愛」です。

愛とは、愛する対象のために最も価値あるものを惜しまずに与える行為です。「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」(Ⅰヨハネ3章16節)とヨハネの手紙一の著者が書いている通りです。

愛についての解説やことばの説明ではなく、イエスの生涯そのものが、愛を定義しているのです。なくてもよいものをあたえるのは、愛ではありません。残り物や余分なものを捨てるのは、慈善であっても本当の愛からは遠いことです。自分にとって最も価値あるもの、捨て難いものを、相手のためにあえて捨てるところに愛があります。

愛とは、文字通り身を切ることです。奇跡とは、病人をいやしたり、人間の願望を何でもなかえて上げたりすることではなく、身を切るほどまでに、相手のために自分をさし出すことであり、そのような愛がイエスにおいて示されたということが、もっとも大きな奇跡なのだ、とヨハネは私たちにむかって語り、証ししているのではないでしょうか。

では、「神は御子イエスを世に遣わされることによって、御子イエスによって世が救われる」と言われていますが、それはどのようにしてなのでしょうか。

神から遣わされた御子イエスは「すべての人を照らすまことの光」(1章9節)と、ヨハネ福音書の記者は語っています。この光は、人間の過去と現在のすべてを明るみに出すのです。このような光がこの世に来たということは、私たちにとっては、今や出会いと決断の時である、ということを意味しています。

この光である御子イエスを信じないということは、神の恵みの光に対して、心を閉ざして拒否することです。ヨハネにとっては、裁きは信じないことの結果もたらされることではなく、信じないということがすでに裁きなのです(18節)。

裁きは将来にあるのではなく、神の御子、すべての人を照らすまことの光に対して心を閉ざして受け入れないという現在の姿そのものの中にあるのです。この光である御子イエスを信じることの中にすでに救いがあるのであり、したがって「信じる者はさばかれない」(18節)と言われているのです。

光にうつし出された人間の姿は、すべて例外なく闇の中にあります。そこには、救われる者と滅びる者との二分法はありません。すべての人間は、闇を愛し、滅びに向かって走っています。そして、光が強ければ強いほど、闇も深くなって行きます。

「信じる」とは、闇そのものでしかない自分の姿をうつし出されて、光であるキリストに向かってその生き方の方向を転換することであり、この決断の中に救いがあるのだと、ヨハネはここで言っているのです。

先ほどイエスとニコデモの対話の記事の中で、「風は思いのままに吹く。あなたがたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」と言われていました。信じるということは、霊によって新しく生まれることなのです。洗礼(バプテスマ)がそのことを象徴的に意味しています。光であるキリストに向かってその生き方の方向を転換することなのです。

20節、21節で、「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」と言われています。「真理を行なっている者は光に来る」(21節)のです。

「すべての人を照らすまことの光」(1章9節)である御子イエスを父なる神がこの世に派遣してくださったことによって、その御子イエスから新しい人類の歴史が始まるのです。その御子イエスによる新しい人類の歴史とは、愛である神の御心が支配する神の国の歴史です。

ものすごい悪が存在していると同時に、まことの光に向かって自分自身を転換し、キリストにあって生きている互いに愛し合う人たちが多く存在しているということもまた事実なのです。闇が深くなればなるほど、光の明るさはよりいっそうの輝きを増すのです。

闇が深まるほどに、まことの光としてのイエスの到来は、その喜ばしさを増すのです。救いと滅び、光と闇とを、固定的、平面的に二分するのではなく、「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」(ローマ5章20節)とパウロが言っているようにです。

この世を愛する神の愛は、御子イエスを光としてこの世に遣わしてくださり、聖霊の息吹を受けて、その光である御子イエスを信じ、闇の中に生きていた己を方向転換して、光に向かって歩むイエスの兄弟姉妹団である教会をこの世に誕生させてくださったのです。そのことによって神はこの世を救おうとしておられるのです。

ヨハネによる福音書13章34節、35節で、イエスは弟子たちにこのように語っています。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」と。

教会はイエスを主と信じる者たちの群れです。イエスの兄弟姉妹団です。御子イエスによってこの世を救おうとしておられる神の愛を証言する群れです。光である御子イエスを信じて、方向転換して、悔改め(メタノイア)て、互いに愛し合うことによって生きる群れです。

本田哲郎さんは、御自身の聖書翻訳で、信仰を「信じて歩みを起こす」に、「愛」は「大切」、「愛する」は「大切にする」と訳しています。「互いに愛し合う」は「互いに大切にし合う」です。人間の尊厳を互いに大切にし合うということです。「イエスを信じる」ということは、イエスが人間の尊厳を大切にされたように、私たちも互いの尊厳を大切にし合って、イエスを信じて歩みを起こすということなのです。

聖書の教えやキリスト教の教義を学ぶことも、礼拝に出席することも大切ですが、それらはイエスを信じて歩みを起こすために必要なものであって、それが自己目的化されるのはおかしいと思います。

私たちは、「世を愛する神の愛」の確かさを信じて、神の御心が支配する神の国の民の一員とし召されて、イエスの兄弟姉妹団である教会に連なっていることを覚えたいと思います。その教会は、御子イエスの福音を信じて、喜びと希望を持ってこの問題に満ちた世に対峙して生きる者たちの群れなのです。

「世を愛する神の愛」は御子イエスを通して世にその愛を示されました。イエスが十字架にかかり、死んで葬られ、復活して、昇天した後は、聖霊の導きによってイエスの弟子集団である教会を通して、神は世を愛されているのではないでしょうか。

今日は足立梅田教会の皆さんとそのことを確認したいと思いました。 

お祈りいたします。

神さま、今日は足立梅田教会の皆さんと礼拝を共にすることができ、感謝いたします。

神さま、70年の歴史をこの地にあって刻んできているこの足立梅田教会が、イエスを主と信じる群れとして、この地にあってイエス・キリストの福音を宣べ伝えていくことができますようにお導きください。

新しく牧師として赴任された関口先生と教会の皆さんの上にあなたの祝福が豊かにありますように!

この一言の祈りを、イエスさまのお名前を通してお捧げします。  アーメン。

(2024年9月8日 日本基督教団足立梅田教会 創立70周年記念礼拝)

2024年9月5日木曜日

あと3日です!

夕日に映える教会の看板(2024年9月4日 17時46分撮影)

敬愛する各位

初めての方も、懐かしい方も、9月8日(日)北村慈郎先生をお招きしての「足立梅田教会創立70周年記念礼拝」に、ぜひご出席ください!

北村慈郎先生は、1969年度から1973年度までの5年間、足立梅田教会の第2代牧師として1953年9月に創立した当教会の土台作りに、また特に貧困に苦しむ地域の方々への救援活動に献身的に取り組んでくださいました。

その後、御器所教会(名古屋)、紅葉坂教会(横浜)の各牧師を歴任され、日本基督教団常議員にもなられました。とても優しい方で、多くの人に愛され、慕われています。

現在82歳の北村慈郎先生のご健康が守られ、記念礼拝の恵みに共にあずかることができますようお祈りいたします。

2024年9月1日日曜日

エレミヤの預言

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「エレミヤの預言」

エレミヤ書28章1~17節

関口 康

「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる、わたしは、これらの国すべての首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる」(14節)

今日のテーマは「エレミヤの預言」です。

エレミヤ書はユダヤ教聖書の第二部「預言者」(ケトゥビーム)の第二部(3大預言書と12小預言書)の前者3大預言書(イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書)に位置します。

エレミヤは「記述預言者」(Writing Prophets)の一人ですが、エレミヤ書は書記バルクが書いたものであることが、36章4節に記されています。

「3大」と「12小」の違いは「3人の偉大な預言者と、12人の小物」ではなく、巻き物の長さ、書物の規模の違いです。

エレミヤ書は3つに区分することができます。彼の生涯は約40年でした。

第1期 ヨシヤ王時代(1~6章):前627年(または626年)~前609年
第2期 ヨヤキム王時代(7~20章):前609年~前598年
第3期 ゼデキヤ王時代(21~52章):前598年~580年代(?)

第1期:ヨシヤ王時代(1~6章)

ヨシヤは8歳で南ユダ王国の王になりました(歴代誌下34章3節)。15歳から16歳の頃に宗教に目覚め、20歳の頃から大規模な偶像破壊運動を始めました。「ヨシヤの宗教改革」と呼ばれます。

エレミヤが預言者として活動を始めたのはヨシヤの宗教改革の開始直後でした。そのため宗教改革にエレミヤが賛成していたかどうかが議論されます。浅野順一先生は「賛成していた」というお考えでした(『浅野順一著作集』第1巻「予言者研究Ⅰ」288頁)。しかし、「賛成していなかった」と考える人もいます(たとえば左近淑先生)。

幼いヨシヤが王になったのは本人の実力ではなく、彼を利用して自分たちの思い描く理想の政治を実現しようとするオトナの力によるもので、ヨシヤは国家官僚たちの傀儡でした。ヨシヤの宗教改革は、異教の偶像や施設を武力で破壊するだけの外面的な改革でした。

エレミヤは言いました。「ユダの人、エルサレムに住む人々は、割礼を受けて主のものとなり、あなたたちの心の包皮を取り去れ」(4章4節)。

エレミヤは心の改革、内面の改革を訴えました。ヨシヤの宗教改革とは方向性が違います。

第2期:ヨヤキム王時代(7~20章)

ヨシヤ王の死をもって南王国の宗教改革は頓挫しました。次に王になったヨヤキムはヨシヤの子でした。

国家は滅亡前夜。政権は弱体化していました。国力の弱さを知る例として挙げられるのは、ヨヤキム王が元はエルヤキムという名前だったのに、エジプト王ファラオ・ネコによってヨヤキムという名前へと改めさせられたことです。

ヨヤキムはエジプトの傀儡でした。国民はエジプト王に納めるための重い税金を課せられました。

その状況の中でヨヤキム王がしたのは、宗教的な熱狂をあおることでした。エレミヤは、ヨヤキム王の政策に反対する預言をしました。「神殿説教」と呼ばれます。

「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない」(7章2~6節)。

「主の神殿」の連呼は、宗教的な熱狂主義を煽る表現です。そのような扇動をヨヤキム政権が行い、国内の宗教的右翼に頼り、政権を維持しようとしました。

そのことにエレミヤは反対し、自国の滅亡を預言し、我々はバビロンのネブカドネツァルの軛にかかるべきであると訴えました。それは戦争の中で犠牲になりやすい、立場が弱い人たちの保護を求めるためでした。とても人道的な訴えでした。

エレミヤは自国の滅亡を預言したため、売国奴呼ばわりされ、孤立しました。悲しみの中でエレミヤは神に訴えました。

「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされてあなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります。わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり、『不法だ、暴力だ』と叫ばずにいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい、もうその名によって語るまいと思っても主の言葉はわたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」(20章7~9節)。

孤立など本当はしたくないのだ、しかし、神が語れと命じる言葉を押さえつけると、神の言葉が自分の中で火のように燃え上がるので、語らざるをえないのだと、神の御前で叫びました。エレミヤは苦難の多い預言者でした。

第3期:ゼデキヤ王時代(21~52章)

南ユダ王国最後の王ゼデキヤは、バビロニアの傀儡でした。

バビロニアに従えば生かしてもらえたのですが、最後に反旗を翻して捕らえられ、ネブカドネツァルはゼデキヤの両眼をつぶし、青銅の足枷をはめて、バビロンに連行しました(エレミヤ書39章7節)。それが「第二次バビロン捕囚」(前587年)と呼ばれます。

その10年前、ユダヤ人の中の指導的な立場にあった人たちや、これからそういう立場に立ちそうな人たちがバビロンに連行されました。それが「第一次バビロン捕囚」(前597年)です。

その人数は、「3千人ほど」と記した箇所(エレミヤ書52章28節)と「1万人ほど」と記した箇所(列王記下24章14節、16節)があり、どちらが正しいかは分かりません。

エレミヤの活動が終了したのは「第二次バビロン捕囚」(前587年)の直後です。ユダヤ人の中の宗教的に熱狂的な立場の人々によって誘拐され、エジプトで消息不明になります。おそらく殺害されました。

さて、今日の箇所です。

第28章に描かれているのは、ゼデキヤ王時代のエレミヤです。エレミヤの前に立ちはだかったのは、正反対の言葉を語る預言者ハナンヤでした。

ハナンヤの預言は「主はバビロンの軛を打ち砕く」というものでした。「あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王ネブカドネツァルの軛を打ち砕く、と主は言われる」(11節)。

これは、戦争を煽る言葉です。主の約束は、この戦争には絶対に勝利できるということなので、最後まで戦い抜け、ということです。

エレミヤは正反対でした。「軛の横木と綱を作って、あなたの首にはめよ」。その意味は、バビロニアに対して敗戦を認め、敵国の捕虜になるべきだということです。それも人道的観点から述べられたことでした。

「どうして、あなたもあなたの民も、剣、飢饉、疫病などで死んでよいだろうか」(27章13節)とエレミヤは訴えました。その意味は、捕虜になれば国民の生命は守られるが、戦死すれば国民は助からない、ということです。

自分とは反対の言葉を語るハナンヤにエレミヤは立ち向かいました。「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ」(15節)。

エレミヤとハナンヤ。どちらの生き方が正しいでしょうか。「わが国は必ず勝利する」と甘い言葉を語るハナンヤは人気があったでしょう。その反対のエレミヤは孤立しました。

わたしたちはどちらを目指すべきでしょうか。偽りではなく真理を語り、弱い人の側に立つことが大事ではないでしょうか。

(2024年9月1日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)