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2024年8月27日火曜日

足立梅田教会創立70周年記念礼拝のお知らせ

再来週9月8日(日)午前10時30分より、足立梅田教会創立70周年記念礼拝を行います。当教会第2代牧師の北村慈郎先生を説教者にお迎えします。どなたもぜひご出席ください。

足立梅田教会創立70周年記念礼拝ポスター

(ウェブ版)
https://www.adachiumeda.church/2024/08/70thAnniversary.html

(モバイル版)
https://www.adachiumeda.church/2024/08/70thAnniversary.html?m=1

2024年8月25日日曜日

全地よ、喜びの叫びをあげよ

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「全地よ、喜びの叫びをあげよ」

詩編98編1~9節

関口 康

「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え」(4節)

今日の説教の準備は難しかったです。詩編98編について書かれた解説書がなかなか見つかりませんでした。

浅野順一先生の全11巻ある『浅野順一著作集』(創文社)の第4巻(1982年)が「詩篇研究」ですが、詩編98編の解説はありませんでした。

私が1980年代後半の東京神学大学で旧約聖書緒論を教わった左近淑先生の『詩篇研究』(新教出版社、初版1971年、復刊1984年)の中にも、詩編98編の解説はありませんでした。

ハイデルベルク大学のヴェスターマン教授(Prof. Dr. Claus Westermann [1909-2000])の『詩編選釈』(大串肇訳、教文館、2006年)にも詩編98編の解説はありませんでした。

やっと見つけたのはドイツの聖書註解シリーズ『ATD(アーテーデー)旧約聖書註解』第14巻「詩編90~150篇」です。この中に詩編98編の解説がありました。

著者はテュービンゲン大学神学部の旧約聖書学者アルトゥール・ヴァイザー教授(Prof. Dr. Artur Weiser [1893-1978])です。しかし解説はかなり古風でした。歴史的な読み方への踏み込みが足りない感じでした。

私が愛用しているオランダ語の聖書註解シリーズにも、詩編98編の解説が見つかりました。最初に調べれば良かったですが、オランダ語がすらすら読めるわけではないので、最後にしました。De Prediking van het oude testament(旧約聖書説教)というシリーズですが、学問的な聖書註解です。

詩編98編の解説を書いたのはタイス・ブーイ博士(Dr. Thijs Booij)です。1994年に出版された『詩編 第3巻(81~110編)』です。

“Thijs Booij (1933) studeerde aan de Vrije Universiteit Amsterdam theologie”(タイス・ブーイ(1933年)はアムステルダム自由大学で神学を学んだ)という記述がネットで見つかりました。1933年生まれだと思います。今も生きておられたら91歳です。

ブーイ先生の解説に私は納得できました。手元にこれ以上の材料はありませんので、ブーイ博士の解説に基づいて詩編98編について説明し、今日的意味を申し上げて今日の説教とさせていただきます。

私は学問をしたいのではありません。聖書を正確に読みたいだけです。自分が読みたいように読むことが禁じられているとは思いません。しかし、たとえば今日の箇所に「新しい歌を主に向かって歌え」と記されていますが、これはどういう意味でしょうか。「作詞家と作曲家に新しい歌を作ってもらって、みんなで歌いましょう」という意味でしょうか。

その理解で正しいとして「新しい歌」でなければならない理由は何でしょうか。「古い歌は時代遅れなので歌うのをやめましょう」ということでしょうか。この詩編が何を言いたいのかを知るために、歴史的な背景を調べる必要があるのではないでしょうか。

ブーイ博士の解説に第一に記されているのは「詩編98編は詩編 96 編と強く関連している」ということです。

「どちらも主(ヤーウェ)の王権について語り、万民の裁判官として来られる主を敬うよう被造物に呼びかける讃美歌である。主の王権については『王なる主』(6 節)として言及されている。主は王として地を裁くために来られる。詩編 98 編はティシュリ月の祝祭を念頭に置いて作曲された。

主の王権は多くの文書の中でシオンと神殿と結びついている。この曲が宗教的な目的以外の目的で作曲されたとは考えにくい。ユダヤ人の伝統では、主の王権はティシュリ月の初日の新年の祝賀と結びついている。」(Ibid.)。

「ティシュリ月」とはユダヤの伝統的なカレンダーです。太陰暦の7月であり、太陽暦の9~10月であり、農耕暦の新年の初めです。ブーイ博士の説明を要約すれば、ユダヤ人の「新年」は秋に始まり、新年祭のたびに「主(ヤーウェ)こそ王である」と宣言する儀式が太古の昔から行われていて、その儀式で歌うために作られた讃美歌のひとつが詩編98編だろう、ということです。

同じ新年祭の儀式で歌われた、時代的にもっと古い讃美歌は詩編93編であるとのことです。詩編93編は、言葉づかいやリズムの格調が高く儀式にふさわしいというのが、そうであると考える理由です。

ブーイ博士が第二に記しているのは「詩編 98 編のもうひとつの特徴は、第二イザヤとの強い親和性(verwantschap)にある」ということです。

「第二イザヤ」(Deuterojesaja; Tweede Jesaja)とは、南ユダ王国で前8世紀に活動した預言者イザヤ(イザヤ書1章から39章までの著者)とは別人です。

イザヤ書44章28節の「キュロス」が前6世紀のペルシア王の名前です。その名前を前8世紀のイザヤが知っていたとは考えにくいというのが、第一と第二を区分する、わりと決定的な理由です。

「第二イザヤ」は、40章から55章までを記した前6世紀のバビロン捕囚とそれに続く時期に活動した預言者です。「第三イザヤ」は56章から66章までの著者です。第二イザヤと同じ前6世紀の人ですが、聖書学者の目でヘブライ語の聖書を読むと文体や思想が全く違って見えるそうです。

詩編98編と第二イザヤの「親和性」についてのブーイ博士の説明に基づいて作成した表は次の通り。

第二イザヤ(イザヤ4055章)

詩編98

4210節a

新しい歌を主に向かって歌え。

1節b

新しい歌を主に向かって歌え。

5210節a

 

主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。

2節b

 

主は恵みの御業を諸国の民の目に現し

 

5210b

 

地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ

3節b

 

地の果てまですべての人はわたしたちの神の救いの御業を見た。

4423

 

天よ、喜び歌え、主のなさったことを。地の底よ、喜びの叫びをあげよ。

4

 

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。

529

 

歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。

5節b

 

琴に合わせてほめ歌え。琴に合わせ、楽の音に合わせて。

5512節b

山と丘はあなたたちを迎え、歓声をあげて喜び歌い、野の木々も、手をたたく

8

潮よ、手を打ち鳴らし、山々よ、共に喜び歌え。

ブーイ博士によると「これらの類似点は、詩編98編の作者が第二イザヤの預言に精通し、そこから当時の出来事を理解していたという意味で説明しうる。詩編98編は前538年以降のイスラエルの復興を歌っている。バビロン捕囚からの解放後の初期のものと考えられる」とのことです。

「当時の出来事」とはバビロン捕囚(前597~538年)です。

ブーイ先生の解説の紹介はここまでにします。これで分かるのは、「新しい歌」の「新しさ」とは、国家滅亡という究極の喪失体験(バビロン捕囚)を経て、そこから解放されて国家再建を目指す人々に求められる、心の入れ替えを意味する、ということです。

もはや古い歌(讃美歌)で十分でないのは、主が前代未聞の奇跡を起こしてくださったからです。

わたしたちはどうでしょうか。世界はどうでしょうか、日本はどうでしょうか。足立梅田教会はどうでしょうか。

足立梅田教会に限らせていただけば、最近起こった出来事は牧師が交代したことです。以前と今と何も変わっていないでしょうか。

もし変わったとして、どのように変わったかは私が言うことではありません。もし「新しい時代の訪れ」を感じるなら「新しい歌を歌うこと」が求められています。

1954年版の讃美歌はやめて「讃美歌21」に取り換えましょう、という程度の意味ではありません。「歌は心」です(淡谷のり子さん)。根本的な心の入れ替えが必要です。

神の御業が更新されたなら、わたしたちにも「新しい思い」が必要です。喜びと感謝をもって共に前進しようではありませんか。

(2024年8月25日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)

2024年8月18日日曜日

モーセの契約

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教 「モーセの契約」

出エジプト記34章1~9節

関口 康

主はモーセに言われた。『前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう』」(1節)。

みなさんはモーセをどれくらいご存じでしょうか。再び旧約聖書学の視点でお話しいたします。ユダヤ教聖書の第一部「律法(トーラー)」が、キリスト教聖書の最初の5巻と同じです。これらが「モーセ五書」と呼ばれてきました。五書の著者はモーセであるとキリスト教会の長い歴史の中で信じられてきたからです。

しかし、そのように今日主張する人は、よほど極端な立場の人か、中身を読んでいない人です。最も単純な理由は、申命記34章5節に「主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ」と記されていることです。自分の死を自分で書ける人はいないだろうというわけです。それだけでなく、中身を読めば読むほど五書をひとりの著者が書いたと考えることが不可能であることを示す証拠が次々と見つかりました。

それで現在考えられているのは、いわゆるモーセ五書は全く異なる時代や文化的背景の中で成立した4つほどの資料が組み合わされてできたものであるということです。資料名を古い順に言えば、「ヤーヴィスト資料(J)」(前10~9世紀、南ユダ王国で成立)、「エローヒスト資料(E)」(前8世紀、北イスラエル王国で成立)、「申命記資料(D)」(前7世紀 北王国で核の部分が書かれ、南王国で成立)、「祭司資料(P)」(前6~5世紀、バビロン捕囚とそれに続く時期)です。

これで分かるのは、五書が最終形態に至ったのは、「祭司資料(P)」が成立する紀元前6世紀以降である、ということです。しかし、モーセが活躍したのはエジプトの王(ファラオ)がラメセス2世だった頃なので、前1250年頃(前13世紀)です。全く異なる時代です。

創世記以外の4巻(出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)の内容はすべて「モーセの生涯」です。創世記の内容は、1章から11章までが「神話」、12章から50章までが三代続く「族長物語」(アブラハム、イサク、ヤコブ)と「ヨセフ物語」です。

創世記は、続く4巻と無関係でなく、モーセの生涯の「前史」としての意味があります。「なぜユダヤ人のモーセがエジプトにいたのか」についての説明が創世記に書かれています。

モーセの生涯にとって最も決定的な意味を持つのは、直前のヨセフとの関係です。アブラハムの子であるイサクの子であるヤコブに12人の子どもがおり、11番目の子がヨセフです。ヨセフは父の溺愛を受け、10人の兄がヨセフに嫉妬し、ヨセフをエジプトに下る奴隷商人に売り飛ばし、ヨセフがエジプトに行くことになりました。しかし、ヨセフがエジプトで出世して王(ファラオ)に仕える司政官になり、エジプトを大飢饉の危機から救った英雄になりました。

そのとき、カナンにいたヨセフの父ヤコブ、ヨセフの10人の兄、そしてヨセフの後に生まれた12番目の子が飢饉の危機にあり、エジプトに助けを求めて来ました。自分をエジプトに売った兄たちが自分にひれ伏すのを見たヨセフは、最初は意地悪な対応をしますが、我慢できなくなって自分はあなたがたがエジプトに売り渡したヨセフであると告白します。そしてヨセフの計らいで父ヤコブと11人の兄弟がエジプトに移住することになりました。

しかし、その頃のエジプトとユダヤ人の良好な関係は、時代の流れの中で失われていきました。ヨセフのことをもはや知らない時代のエジプト王(ファラオ)が、国内に増え過ぎたユダヤ人に自分の国を乗っ取られると危機感を抱き、ユダヤ人に奴隷労働を課し、ユダヤ人家庭に生まれる男子をすべてナイル川に投げ込めと命令を出しました。

しかし、その命令に逆らって、生まれた子を生かすことにした父アムラムと母ヨケベドが、その子を葦で編んだかごに入れ、ナイル川のほとりの葦の中に隠しました。川に水浴びに来たファラオの娘がそのかごを見つけ、抱き上げました。

その様子を見ていた、その子の実の姉ミリアムがファラオの娘のところに駆け寄り、その赤ちゃんに乳をあげる乳母を紹介しましょうかと言いました。ファラオの娘は了解し、ミリアムが連れて来たのが、実の母ヨケベド。ファラオの娘が赤ちゃんにつけた名前が「モーセ」でした。

モーセはエジプトの王宮でファラオの子どもと等しい教育を受けました。しかし、ユダヤ人を虐待するエジプト人の姿を見て、憤慨し、殺してしまいます。殺人罪でエジプトを追われる身となり、シナイ半島のミディアンへ逃亡し、そこで妻ツィポラと結婚し、子どもが与えられて幸せな生活を送っていました。

しかし、エジプトで奴隷労働を強いられているユダヤ人たちへの思いがモーセの中で強くなりました。そのとき、主なる神がモーセに現れ、ユダヤ人たちをエジプトから、元いたカナンの地まで連れ帰る仕事をあなたがしなさいと命令しました。

それで、モーセはエジプトに戻ってファラオと交渉し、ついにファラオが折れて、ユダヤ人を去らせることを許可しました。しかし、実際にユダヤ人が出て行こうとするとエジプト軍の戦車600台がユダヤ人を追い、紅海の前まで追い詰めました。モーセが杖をあげると、紅海が真っ二つに割れて海の中に道ができ、ユダヤ人たちが通って向こう岸にたどり着きました。エジプト軍が全員紅海に入ったときモーセが杖を下げると海が元に戻り、エジプト軍が全滅しました。

しかし、そこまでして苦労してエジプトを脱出したユダヤ人たちが、430年間にわたるエジプトでの奴隷労働に慣れてしまい、奴隷的な意味で命令に従うことはできても、自分の意志と主体性をもって立つことができませんでした。自由になったはずの彼らが、砂漠には水がない、食べ物もないと不平不満を言いました。「お前のせいでこうなった、どうしてくれる」とモーセに食ってかかりました。

そこでモーセは神から示されてシナイ山に登り、山の上で二枚の石板を切り出し、十の戒めを石板に刻みました。それがモーセの十戒(出エジプト記20章、申命記6章)です。

しかし、問題はその先です。今日の箇所に描かれているのは、モーセが二枚の石板をシナイ山から民のもとに持ち帰ったとき、民はモーセが自分たちを捨てて逃げ去ったと思い込み、モーセと主なる神に頼ることをやめ、金で子牛の形の偶像をつくり、それをみんなで拝んでいました。

それを見たモーセは激怒し、二枚の石板を投げつけて破壊し、金の子牛を火で焼いて粉々にして水の上にまき散らして、民に飲ませました。それで、反省したユダヤ人たちに、神がもう一度、二枚の石板を与えてくださった、というのが今日の箇所の内容です。

今日の結論は単純です。主なる神はご自身の民を奴隷状態の暴力やあらゆる苦しみの中から救い出す、強い意志を持っておられます。人間は奴隷状態のままでいてはいけない、自由に生きなければならないと、神が強く望んでおられます。人間は自分の都合次第で、どんな相手でも裏切ります。しかし、主なる神は一度かわした約束をご自身のほうから破ることはありえない方です。

だからこそ、神はその民に何度でも石板を与えてくださいます。民は神への信頼を忘れ、金の子牛の偶像を拝み、モーセは怒ってその石板を叩き割ってしまいました。しかし、神は何度でも民に悔い改めの機会を与え、何度でも十戒を石板に書くように、モーセに命じました。モーセの十戒は、神がその民との間でかわしてくださった、不変の愛の約束です。

イエス・キリストにおいて示された神の愛も、同じ形をしています。わたしたちは欠けが多く、どうしようもなく罪深い存在です。しかし、イエス・キリストにおいて神はわたしたちを何度でも赦してくださり、どこまでも愛し続けてくださいます。神がわたしたちを救う意思は、不変で確実です。人間は変わっても、神は変わりません。

(2024年8月17日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)

2024年8月11日日曜日

ヨブの苦難

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教動画

※以下の説教は、動画で話したこととは内容が違います。動画を見てほしいです!

説教「ヨブの苦難」

ヨブ記29章1~17節

関口 康
 
「ヨブは言葉をついで主張した。 どうか、過ぎた年月を返してくれ。神に守られていたあの日々を」(1-2節)

私は一昨日の8月9日(金)から順天堂大学病院(正式名称「順天堂大学医学部附属順天堂医院」)に入院しています。この説教の原稿は病室で書いています。代読してくださる方に特別な感謝を申し上げます。

今日のテーマはヨブ記です。内容に入る前に、もう少し広い視点からヨブ記の位置づけを考えておくほうが内容を理解しやすくなると思いますので、そのようにします。

ヨブ記はユダヤ教聖書の第一部「律法(トーラー)」、第二部「預言者」(ネビイーム)、第三部「諸書」(ケトゥビーム)という三部構成の中の、最後の「諸書」の中にあります。

「諸書」の中に聖書学者たちが「知恵文学」と呼んでいる書物が4つあります。箴言、ヨブ記、コヘレトの言葉、詩編の一部です。詩編「の一部」と言ってもごくわずかで、聖書学者たちがそうだと断定するのは1編、32編、34編の3つくらいです。

箴言、ヨブ記、コヘレトの言葉、詩編の一部がなぜ「知恵文学」と呼ばれるのかと言いますと、これらの書物に共通する「特徴」があるからです。その「特徴」はいくつかありますが、その中で最もきわだったものは「応報思想」です。

「応報思想」の考え方は非常に単純です。「善い行いをした人は善い報いを得る。悪い行いをした人は悪い報いを得る」というものです。

「善い行い」または「悪い行い」のほうを原因と呼び、「善い報い」または「悪い報い」のほうを結果と呼ぶとすれば、原因と結果の関係(因果関係)がねじれていないのが応報思想です。

原因と結果との関係がねじれ、善い行いをした人が悪い報いを得ることがあってはならないし、悪い行いをした人が善い報いを得るようなこともあってはなりません。それは「世界の秩序が狂うこと」を意味します。

しかもそれは、あくまで聖書の世界の話です。「善い行い」の最たるものは「神を信じ、神の掟に従って生きること」です。それを忠実に守る人は善い報いを得られます、幸せな人生を送ることができますと、そのことを歌っているのが詩編1編です。

逆も然りです。「悪い行い」の最たるものは「神に背き、神の掟に従わずに生きること」です。そのような人は不幸な人生を送るであろう。このことも詩編1編に歌われています。詩編1編は典型的な知恵文学です。

そのように教える「知恵文学」の中に「ヨブ記」が位置づけられます。しかし、ここまでお聴きくださったみなさんの中で、ヨブ記を一度でもお読みになったことがある方は、「その説明は変だ」とお思いになるのではないかと予想します。

もう少し旧約聖書をご存じの方も、次のようにお感じではないでしょうか。

「箴言というのが、神を信じる人は善い報いを得るが、神に背く人は悪い報いを得る、というような応報思想で貫かれているという話はよく分かる。しかし、ヨブ記とコヘレトの言葉は正反対ではないか。」

ヨブ記の主人公ヨブは、神を信じ、神の掟に忠実に従って生きていました。しかし、それにもかかわらず、激しい不幸に見舞われ、家族を失い、財産を失い、自分の体の全身にできものができて、親しい友人たちがヨブを慰めに来たとき、それがヨブだと分からないほど変わり果てた姿になったという話です。

そのヨブ記のどこが「知恵文学」(応報思想)なのでしょうか。

この問題について、今年3月で定年退職されましたが、東京神学大学で長いあいだ旧約聖書の教授だった小友聡(おとも・さとし)先生が、明確な答えを出してくださいました。

小友先生によると「知恵文学」には2種類あり、成立年代が全く違います。時代が古いほうは「楽観的知恵文学」であり、その典型が箴言です。箴言はイスラエル王国が最盛期であった紀元10世紀から近い時代に成立しました。

「善いことをすれば善い報いがあります。受験をがんばればいい大学に入れて、いい就職ができて、いい財産を築けて、いい家庭を作れる。不幸な人は、がんばらなかったからだ」というような楽観的な言葉が通用する時代は、政治や経済が上向きで、調子がいいときだ、というわけです。

しかし、小友先生はそこで「待った」をかけます。

現実の社会をまじめに生きている人たちが本当に善い報いを得ていますか、全くそうなっていないではありませんかと。現実は正反対で、まじめに生きている人は報われず、ずる賢い人たちこそ出世レースに勝ち残るというような話は、いくらでもあるではありませんかと。

現実に照らすと、「知恵文学」の特徴である「応報思想」には明らかに限界があるのです。ヨブ記とコヘレトの言葉は「応報思想には明らかに限界があること」を教えるために書かれた「悲観的知恵文学」です、というのが小友先生の説明です。

「悲観的知恵文学」としてのヨブ記とコヘレトの言葉は、イスラエル王国が滅亡した紀元前6世紀の「バビロン捕囚」の後に書かれました。社会全体が暗く、努力する人が報われない時代背景を反映している書物です。

さて、ここからヨブ記の解説に集中します。

ヨブは少しも悪いことをしなかったのに悪い報いを得ました。それでヨブは絶望しました。「わたしの生まれた日は消えうせよ」(3章3節)とまで言いました。

3人の友人がヨブを慰めに来ました。しかし、その言葉が慰めになっていません。彼らがヨブに言っているのが「応報思想」だったからです。

しかもそれは「善い行いをした人は善い報いを得る」のほうではなく「悪い行いをした人は悪い報いを得る」のほうでした。

「ヨブさん、あなたは自分が忘れているだけで、悪いことをしたのだ。だから今の結果になったのだ。その罪を思い出して悔い改めなさい」と、そういう言葉で彼らはヨブを説得しようとしました。それでヨブは、ますます怒り、心を閉ざすことになりました。

「応報思想の限界を教えること」がヨブ記の目的であると考えると、よく分かる話だと思いませんか。

わたしたちも、そのような「信仰的な言葉」で、だれかの心を深く傷つけていないか、自分の胸に手を当ててよく考えてみるべきです。

(2024年8月11日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)