2024年8月11日日曜日

ヨブの苦難

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教動画

※以下の説教は、動画で話したこととは内容が違います。動画を見てほしいです!

説教「ヨブの苦難」

ヨブ記29章1~17節

関口 康
 
「ヨブは言葉をついで主張した。 どうか、過ぎた年月を返してくれ。神に守られていたあの日々を」(1-2節)

私は一昨日の8月9日(金)から順天堂大学病院(正式名称「順天堂大学医学部附属順天堂医院」)に入院しています。この説教の原稿は病室で書いています。代読してくださる方に特別な感謝を申し上げます。

今日のテーマはヨブ記です。内容に入る前に、もう少し広い視点からヨブ記の位置づけを考えておくほうが内容を理解しやすくなると思いますので、そのようにします。

ヨブ記はユダヤ教聖書の第一部「律法(トーラー)」、第二部「預言者」(ネビイーム)、第三部「諸書」(ケトゥビーム)という三部構成の中の、最後の「諸書」の中にあります。

「諸書」の中に聖書学者たちが「知恵文学」と呼んでいる書物が4つあります。箴言、ヨブ記、コヘレトの言葉、詩編の一部です。詩編「の一部」と言ってもごくわずかで、聖書学者たちがそうだと断定するのは1編、32編、34編の3つくらいです。

箴言、ヨブ記、コヘレトの言葉、詩編の一部がなぜ「知恵文学」と呼ばれるのかと言いますと、これらの書物に共通する「特徴」があるからです。その「特徴」はいくつかありますが、その中で最もきわだったものは「応報思想」です。

「応報思想」の考え方は非常に単純です。「善い行いをした人は善い報いを得る。悪い行いをした人は悪い報いを得る」というものです。

「善い行い」または「悪い行い」のほうを原因と呼び、「善い報い」または「悪い報い」のほうを結果と呼ぶとすれば、原因と結果の関係(因果関係)がねじれていないのが応報思想です。

原因と結果との関係がねじれ、善い行いをした人が悪い報いを得ることがあってはならないし、悪い行いをした人が善い報いを得るようなこともあってはなりません。それは「世界の秩序が狂うこと」を意味します。

しかもそれは、あくまで聖書の世界の話です。「善い行い」の最たるものは「神を信じ、神の掟に従って生きること」です。それを忠実に守る人は善い報いを得られます、幸せな人生を送ることができますと、そのことを歌っているのが詩編1編です。

逆も然りです。「悪い行い」の最たるものは「神に背き、神の掟に従わずに生きること」です。そのような人は不幸な人生を送るであろう。このことも詩編1編に歌われています。詩編1編は典型的な知恵文学です。

そのように教える「知恵文学」の中に「ヨブ記」が位置づけられます。しかし、ここまでお聴きくださったみなさんの中で、ヨブ記を一度でもお読みになったことがある方は、「その説明は変だ」とお思いになるのではないかと予想します。

もう少し旧約聖書をご存じの方も、次のようにお感じではないでしょうか。

「箴言というのが、神を信じる人は善い報いを得るが、神に背く人は悪い報いを得る、というような応報思想で貫かれているという話はよく分かる。しかし、ヨブ記とコヘレトの言葉は正反対ではないか。」

ヨブ記の主人公ヨブは、神を信じ、神の掟に忠実に従って生きていました。しかし、それにもかかわらず、激しい不幸に見舞われ、家族を失い、財産を失い、自分の体の全身にできものができて、親しい友人たちがヨブを慰めに来たとき、それがヨブだと分からないほど変わり果てた姿になったという話です。

そのヨブ記のどこが「知恵文学」(応報思想)なのでしょうか。

この問題について、今年3月で定年退職されましたが、東京神学大学で長いあいだ旧約聖書の教授だった小友聡(おとも・さとし)先生が、明確な答えを出してくださいました。

小友先生によると「知恵文学」には2種類あり、成立年代が全く違います。時代が古いほうは「楽観的知恵文学」であり、その典型が箴言です。箴言はイスラエル王国が最盛期であった紀元10世紀から近い時代に成立しました。

「善いことをすれば善い報いがあります。受験をがんばればいい大学に入れて、いい就職ができて、いい財産を築けて、いい家庭を作れる。不幸な人は、がんばらなかったからだ」というような楽観的な言葉が通用する時代は、政治や経済が上向きで、調子がいいときだ、というわけです。

しかし、小友先生はそこで「待った」をかけます。

現実の社会をまじめに生きている人たちが本当に善い報いを得ていますか、全くそうなっていないではありませんかと。現実は正反対で、まじめに生きている人は報われず、ずる賢い人たちこそ出世レースに勝ち残るというような話は、いくらでもあるではありませんかと。

現実に照らすと、「知恵文学」の特徴である「応報思想」には明らかに限界があるのです。ヨブ記とコヘレトの言葉は「応報思想には明らかに限界があること」を教えるために書かれた「悲観的知恵文学」です、というのが小友先生の説明です。

「悲観的知恵文学」としてのヨブ記とコヘレトの言葉は、イスラエル王国が滅亡した紀元前6世紀の「バビロン捕囚」の後に書かれました。社会全体が暗く、努力する人が報われない時代背景を反映している書物です。

さて、ここからヨブ記の解説に集中します。

ヨブは少しも悪いことをしなかったのに悪い報いを得ました。それでヨブは絶望しました。「わたしの生まれた日は消えうせよ」(3章3節)とまで言いました。

3人の友人がヨブを慰めに来ました。しかし、その言葉が慰めになっていません。彼らがヨブに言っているのが「応報思想」だったからです。

しかもそれは「善い行いをした人は善い報いを得る」のほうではなく「悪い行いをした人は悪い報いを得る」のほうでした。

「ヨブさん、あなたは自分が忘れているだけで、悪いことをしたのだ。だから今の結果になったのだ。その罪を思い出して悔い改めなさい」と、そういう言葉で彼らはヨブを説得しようとしました。それでヨブは、ますます怒り、心を閉ざすことになりました。

「応報思想の限界を教えること」がヨブ記の目的であると考えると、よく分かる話だと思いませんか。

わたしたちも、そのような「信仰的な言葉」で、だれかの心を深く傷つけていないか、自分の胸に手を当ててよく考えてみるべきです。

(2024年8月11日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)