2024年6月9日日曜日

信仰の道

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「信仰の道」

ヨハネの手紙一2章22~29節

関口 康

「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です」(24~25節)

「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」(22節)という言葉から始まる箇所を朗読していただきました。

これは未信者や求道者を責める言葉ではありません。ここで「偽り者」の意味は「うそつき」または「詐欺師」です。ならば、だれを責めているのかといえば、教会の中で教える側の立場にいながら異なる福音を宣べ伝えようとする「偽教師」です。

私は足立梅田教会ですでにこの手紙について説教したことがあります。そのときにも申し上げたことですが、この手紙の筆者の名前はどこにも記されていません。それでもはっきり分かるのは、ヨハネによる福音書の著者と同一人物か、または同じグループに属していて同じ信仰理解に立つ人が書いた手紙であるということです。

この手紙の成立時期は、主イエス・キリストが十字架にかけられた西暦30年代から50年から70年ほど経過した頃です。ローマ帝国によってエルサレム神殿が陥落したのが西暦70年です。その前後からユダヤ人が国土にとどまる権利を失いはじめ、やがて完全追放が始まり、その流れが西暦2世紀ごろまで続きました。

そのようにしてユダヤ人の離散(ディアスポラ)が本格化した時代にこの手紙は書かれました。それはまさにキリスト教会の「創立70周年」の頃であるといえます。昨年9月に「創立70周年」を迎えた足立梅田教会の状況と重ね合わせて読むことができます。

その頃までには、教会の創立メンバーであるイエスの直弟子たちは亡くなり、世代交代は完了していました。しかし、その二代目、三代目の世代の教会にいる人たちは、自分たちが何を信じ、何を受け継ぐべきかがだんだん分からなくなっても来ていて、教会が衰退しかけていました。

先行き不透明で、何をどのように信じればよいのかが流動的で、教会運営にまとまりがなく、教会生活を続けていくこと自体にストレスを感じる時代。

そのようなときに、国土を奪われ、国外追放を余儀なくされたユダヤ人たちがキリスト教会にも集まって来ました。

ユダヤ人たちの中には、「イエスがキリストである」と告白するキリスト教の信仰を受け容れることは困難であるが、そういうことは横に置いて、とにかく自分の居場所が欲しい、話し相手が欲しい、心の拠りどころが欲しいと願う人々がいたと考えられます。ユダヤ人の伝統的な宗教であるユダヤ教と、新しく生まれたばかりのキリスト教との違いを強調するようなことさえしなければ一緒にやって行けるだろうと期待した人々がいたと考えられます。

ユダヤ人にとって「神」を信じることについては全く問題ありませんでした。その点において彼らは未信者でも求道者でもありませんでした。「偽教師」も「神」を否定したのではありません。しかし、「神」と神の御子である「イエス・キリスト」とを同時に信じ、「同じひとりの神である」と告白するキリスト教の信仰にユダヤ教の人々は同意することができませんでした。

「人が集まり、献金も潤沢になり、安定した団体運営を続けていくためには、なるべくうるさいことを言わないのが得策である」と言われれば、返す言葉がありません。しかし、ある一線を越えてしまいますと、キリスト教がキリスト教であることを失ってしまいます。そのような難しい時代の教会を導いた人またはグループが、ヨハネによる福音書やヨハネの手紙を書きました。

23節に「御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています」と記されています。「公に言い表す」とは「信仰を告白すること」を指しています。しかしそれは、完全な確信をもって公然と宣言することを意味しています。心の中では信じている。だからといって「このわたしはキリスト者である」と公言することまではしないという生き方の正反対です。

西暦1世紀のキリスト教会にいた「偽教師」を「うそつき」または「詐欺師」などと呼ばわることには問題があるかもしません。先行き不透明で衰退の一途をたどりつつあった教会の将来を彼らなりに憂い、ユダヤ教とキリスト教との違いを強調することをやめれば、教会に人をもっとたくさん集めることができるのではないかと”前向きに考えた”可能性も考えられるからです。

イエスが神の子であり、神ご自身であるというキリスト教の信仰こそ人間を神のように拝む冒瀆の罪であるとユダヤ教の人々は考えました。その考えに近づいた人々が、教会の中にも現れたのです。

その人々は、「神はどこまでも神であり、人ではどこまでも人であって神ではありえない」ということを力強く語り、「神が人になった」とか「神は御子を与えるほどに世を愛された」というようなことを言わずにいることのほうが純粋な信仰であると考えました。

しかし、ヨハネ福音書とヨハネの手紙を書いた人またはグループはそれに反対しました。「神が肉になった」と言われる場合の「肉」(ギリシア語でサルクス)も、「神が世を愛するために御子を世に遣わした」と言われる場合の「世」(ギリシア語でコスモス)も、どちらも神にとっては愛の対象です。ヨハネの手紙の著者は、神から遣わされた神の御子キリストが真の人間であることをはっきり示すことに尽力しています。

ところが、そのような「肉をまとう神」だとか「世を愛する神」だとか、そのようなことを言い出すキリスト教の信仰は、ユダヤ人にとっては我慢できないほど「純粋でないもの」に思えて仕方がありませんでした。

なぜ神が「肉」ごときにならなくてはならないのか、なぜ神の子が「世」ごときのために大事な命をささげなくてはならないのか、そんな汚らわしいことをしなければ神は人を救うことができないというのか、全くありえないことだとユダヤ人はキリスト教に反対し、身震いしながら毛嫌いしました。

ヨハネの手紙の著者が「反キリスト」と呼んでいるのは、まさにその意味での「純粋さ」を求める人々のことです。

イエスをキリストと信じるほうが「純粋でなくなる」というのは興味深い展開だと思いませんか。その観点から見れば、聖霊を神と信じる人は、もっと「純粋でなくなる」でしょう。

「神が肉になる」すなわち「神が人の肉体をまとわれる」と、わたしたち人間の体温や鼓動や汗、会話や感情と神の言葉とがシンクロします。聖霊は風。空気のように人と世界にぴったりとはりついて離れません。

神ご自身が、「神の言」であるキリストにおいて、聖霊を通して、わたしたちが生きている地上の現実の状況に合わせて、変幻自在に姿をかえ、柔軟に対応してくださいます。

先週木曜日に行われた、足立梅田教会と深い関係にある方の葬儀に、皆さんの中のお二人と私の計3名で参列しました。私が伊豆大島に出かけていた2泊3日のひとり旅の最終日にペンションをチェックアウトした直後に、ご長男である喪主の方からお電話をいただきました(着信履歴6月5日水曜日9時50分)。

斎場の係の人にわたしたちが教会の者であることを伝えたところ、顔色が変わり、「焼香どうなさいますか」と真っ先に尋ねられました。

「問題ありません」と私は答えました。私の考えは、葬儀の参列者にとって大事なことは、ところかまわず自分の信念を貫くことではなく、遺族の立場を尊重し、遺族の心に寄り添うことです。だから問題ありません。嫌なことをさせられたとは思いません。自分の考えをだれかに押し付けようとも思いません。

「信仰の道」は、邪悪な世界を破壊し、邪魔な人間を叩きのめす鉄パイプではありません。自分の信念を貫くことよりも相手に寄り添うことを優先します。人と世界にぴったりフィットする、やさしくて温かい柔軟素材でできています。

(2024年6月9日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)