日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
敬愛する各位
聖名を賛美いたします。私共足立梅田教会は2024年3月1日より関口康牧師を招聘し、5月26日東支区長林牧人牧師司式により牧師就任式を行いました。牧師就任式にご出席くださった皆様、ご献金・お祝い品・ご祝電・メッセージ等をお贈りくださった皆様に感謝申し上げます。今後ともよろしくお願いいたします。
日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
関口 康
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」
5月になりました。この教会に来て2か月もちました。あとどれぐらいおらせていただけるでしょうか。毎日懸命に働かせていただいています。
9月8日に足立梅田教会の創立70周年記念礼拝を行います。講師として、当教会の第2代牧師である北村慈郎先生をお迎えします。しかし私は面識がありません。勉強させていただこうと、1989年3月に出版された『足立梅田教会の歩み』(非売品、全202ページ、ハードカバー美装)の北村慈郎先生の文章を読ませていただきました。
1989年3月の私は、東京神学大学大学院の1年から2年に進級する直前です。三鷹の学生寮にいました。翌年1990年3月に卒業しました。牧師としての経験はゼロの年です。
素晴らしい文章だと思いました。北村先生はきっと文章が上手な方です。しかし「文章が上手」というのはいろんな意味を持つ可能性があります。悪い意味ではありません。実体が伴っている文章です。足立梅田教会が大好きな方です。この教会の本質を熟知しておられます。この教会がどこを目指して歩むべきかの見通しが明確です。説得力があります。大先輩の文章を赤ペン添削するのは不遜極まりないことで、申し訳ありません。
次の文章から始まります。「教会はイエス・キリストを主と告白する者の交わり、と言われます。交わりとは、人と人との絆のことです。その絆を担うひとりひとりは、それぞれ固有な存在と、生活の人であります。けれども交わりとしての教会は、イエス・キリストにあってひとつなのであります」。
そして北村先生が「これはいつまでも失ってはならない良さではないかと思わされました点」としてほとんど冒頭に挙げておられるのが「梅田教会が、〔初代〕藤村〔靖一〕先生の良き導きによって、ありのままのその人を大切にする教会であるという点、つまり教会の担い手の多様性を無条件に受容するということ」です。
そして「悩みを持ち、それぞれの重い生活を背負いながら教会の門をくぐって、求めて来る人たちが礼拝に来るわけですが、梅田教会はそのような人に対して、教会の側の枠組を押し付ける、ということがありませんでした」と北村先生がおっしゃっていることに、私は感銘を受けました。
北村先生がこの文章を書かれたのが足立梅田教会創立35周年の頃ですので、70周年のちょうど半分です。その時点において北村先生が「僕の希望」として書いておられるのが「この35年の歴史で藤村先生の人格的影響力によって培われた梅田教会の土台を大切にして、これからもその上に教会を建てて行ってもらいたい、と願っています」ということです。
その「土台」が上にご紹介した2つです。第一は「教会の担い手の多様性を無条件に受容すること」です。第二は「教会の側の枠組みを押し付けないこと」です。この土台とは異なる方向に進んで行こうとすると、木に竹を接ぐ結果になってしまう、ということだと思います。
しかし、この先に北村先生がお書きになっていることが最も重要です。「けれども、その作業は大変難しい、と思います」から始まるくだりです。
「その困難さはどこにあるかといえば、教会の制度的な整備によってではなく、教会の担い手であります信徒ひとりひとりが、ある意味で藤村先生の人格性(それはイエスに通ずるもの)を体現することによってはじめて、これからの梅田教会が、今までの良き伝統を生かしつつ、創造的な営みが可能になると思われるからです。今まで多くの方々は、そのありのままの自分を受け容れてくれる教会として、受け手の立場に安住していたという面が強くあったのではないでしょうか。そういう受け手の姿勢に留まるかぎり、いつまでも藤村先生がいなければダメ、ということになってしまうと思います」。
厳しい言葉ですね。
今日の聖書箇所は先週の箇所の続きです。主イエスが十字架にかけられる前の夜に弟子たちと共にお囲みになった最後の晩餐での遺言です。北村慈郎先生が藤村靖一先生の人格性に「イエスに通ずるもの」を見出しておられたことが分かりましたので、話が早くなります。
主イエスが話しておられることの最も中心にあるのは、今日の朗読箇所の少し前の箇所ですが、「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」(7節)です。衝撃的な言葉です。
主イエスが一緒にいてくださるかぎり、弟子たちは、北村慈郎先生の文章で用いられた表現をお借りして言えば「受け手の立場に安住する」ことができます。そういう受け手の姿勢に留まるかぎり、いつまでも「あの先生」がいなければダメ、ということになってしまうと思います。
ここまで申し上げたところで「自立」という言葉が去来しておられる方が多いかもしれません。自立といえば自立です。自立、大事です。しかし、わたしたちに求められるのは、絶対的な自立ではなく相対的な自立です。絶対的に完全に自立しなくてはならないとしたら、教会の交わりは要らないでしょう。「ひとりで生きていってください」と突き放されなくてはならないでしょうか。そんな冷たい教会では困ります。
空間と時間の枠組みに拘束された物理的存在である肉体を持つ西暦1世紀のナザレのイエスは、今はもう地上にいません。いなくていいとか、いないほうがいいとか言うのは、すごく不謹慎なことを言っているようで私も嫌ですが、ご理解いただきたいのであえて極端な表現を用います。
地上のイエスと会わないかぎりキリスト信者でないことになるのであれば、将来天才科学者が発明してくれるかもしれないタイムマシーンか、せめて飛行機と正確な位置情報がないかぎり、キリスト信者になることができません。しかし、イエスが納められたであろうと言われるお墓の場所に行ったとしても「ここにはおられない」と言われているので、墓参に意味はありません。
その必要は全くないと主イエスご自身がおっしゃっているのです。目に見えない神があなたの心と体に宿ってくださるから。弁護者(パラクレーテ)が来てくれるから。聖霊があなたの傍らにいつも立ち、あなたの中にいつもいて、必ずあなたをかばってくれるから、私がいなくなっても大丈夫だと、主イエスは弟子たちを懸命に励ましておられるのです。
今日の箇所の最後に印象的な言葉が語られています。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(31節)。
主イエスが「勝利」について語っておられます。この勝利に「戦闘における勝利」という意味が全く含まれていないとは言えませんが、それより大事なのは「裁判(Prozeß)における勝利」という意味です。後者の意味を強調したのは20世紀の新約聖書学者ルードルフ・ブルトマンです。
主イエスは、サンヘドリンにおいてもポンティオ・ピラトのもとでも不当な裁判を受けました。主イエスは冤罪です。人の裁判で死刑にされた主イエスは、神の裁判においては勝利しているということです。
神の義にかなう主イエスに従うことは正しいことなので、勇気を持って、自信をもって、主イエスに身をゆだねることができます。弟子たちが主イエスに「信じます」(30節)と応えているのは、主イエスに自分の身をゆだねて生きることの決心と約束を意味しています。
(2024年5月5日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)