2026年10月25日日曜日

相手を受け入れる

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「相手を受け入れる」

ローマの信徒への手紙15章1~13節

関口 康

「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」( 7 節)。

ローマの信徒への手紙14章 1 節から始まる「信仰の強い人」と「信仰の弱い人」についての話題も今日で 3 回目。同じ話を繰り返すだけなら「そろそろ飽きました」と言われかねません。

構造が単純な内容なので理解しやすさがあり、現実の場面を思い浮かべることも容易です。それは危険なことでもあります。特定のだれかに当てこすっているのかと誤解されかねません。「私のこと?」と感じた人がいると「当てこすりをされるなら教会に来ません」と決心されてしまうかもしれません。

「信仰」について「強い」の「弱い」の言われること自体が腑に落ちない人もいるでしょう。「信仰に強いも弱いもない」と言ってもらえるほうが安心するという人のほうが多いでしょう。しかし、パウロがそう言っています。聖書にそう記されています。それで話が複雑になります。

しかもパウロが取り上げている問題の中身をじっくり読むと、ありえない作り話ではなく、教会の中で何度も繰り返し起こってきたし、今も続く問題であることが分かります。

とはいえ、日本の教会の感覚を大なり小なり知っている人々にとっては、「強い」と「弱い」の関係が逆ではないかと感じるであろう内容でもあります。なぜならパウロは「信仰が強い人」とは、要するに「すべては自由だ」と言っているからです。

アルコールは制限しないと言っているほうが「信仰が強い人」であるとパウロは明言しています。それは逆で、制限している人のほうが「信仰が強い人」ではないかと直感的に思うし、実際にそう教える教会が今もあるでしょう。

私の参考書(A. F. N. レケルケルカー著)に興味深い言葉が記されています。パウロが彼自身をそのグループのメンバーに加える「信仰の強い人」のほうが、自分たちとの対比で「信仰の弱い人」と名付けただけではないかと。「信仰の弱い人」と名指されている人たち自身が自分たちをその称号では呼ばないだろうというわけです。

言われてみればそのとおりです。「信仰が強い人」こそが、教会分裂の張本人になっているかもしれないと、自分に問いかけるべきです。

「すべては自由だ」と主張する人たちがまとう客観的イメージには、危険な存在に似てくる面があるかもしれません。タイガーマスクというアニメを覚えておられますか。調べると、1972年の放送でした。私は小学 1 年生。

主題歌を覚えておられますか。歌詞はネットですぐ出てきます。「白いマットのジャングルに/今日も嵐が吹き荒れる/ルール無用の悪党に/正義のパンチをぶちかませ/行け行けタイガー/タイガーマスク」。

「ルール無用」は「悪党」だと、私は小学 1 年生で覚えました。「すべては自由」の側の人々は「悪党」に見える面があるようです。私の参考書にも、「強いと名乗る側に一定の自己顕示欲がある」と記しています。どこまでも公平な記し方です。

しかしまた、いま挙げた「信仰の強い人」を自称する人々の側の問題をパウロが全く自覚していなかったわけではないはずです。なぜそのように言えるかというと、パウロが求めているのはとにかく「和解」だからです。「信仰が強い」側が教会を制圧してはいけないと強く訴えています。

だからこそパウロは、教会の頭(かしら)なるイエス・キリストに主導権(イニシアティヴ)を譲ります。

「キリストもご自身を喜ばせようとはなさいませんでした」( 3 節)。

「私たちは、聖書が教える忍耐と慰めによって、希望を持つことができるのです」( 4 節b)。

「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」( 7 節)。

しかし、これでも問題は簡単には解決しないでしょう。パウロが記しているのは、キリストは「忍耐」されたのだから、あなたがたも「忍耐」しなさいということです。感じる人は次のように感じるはずです。「要するに、私たちって、我慢されているだけか」と。

「強い人たちは、弱い人たちのことを我慢しているというわけですね。つまり、自分たちが我慢しなくて済むように弱い人たちに早くいなくなってほしいと思っているということでしょうか」と。

我慢にも限界がある。堪忍袋の緒はいつか切れますよと。こういう話になると、かえって事態がこじれるでしょう。

この点に関しても私の参考書(レケルケルカー著)はどこまでも公平です。「教会内の論争は、忍耐は強い者のためにあり、慰めは弱い者のためにある、というような問題では決してない」と記してくれています。

それだけでなく「強い人の弱さ」という表現まで出てきます。この表現に私は驚きました。その意味は文脈から明らかです。「強い」と自称する側の人は「弱い」人を最終的には受け入れておらず、「早くいなくなってほしい」と願いながら、我慢しているだけだということでしょう。

日本基督教団の1941年創立以来、85年経ても全く収束しない内部分裂の原因は、それではないでしょうか。「出ていくのはあの人たちだ」と。

昨日ファン・ルーラーのオランダ語の著作をエーアイの助けを得ながら読んでいました。

私も直接指導を受けた神戸改革派神学校元校長の牧田吉和先生の著書『改革派信仰とは何か』(初版1999年、聖恵授産所出版部)で「アヤックスとフェイエノールトを楽しむことこそ聖化の本質である」というファン・ルーラーの言葉が紹介されて、日本の教会で話題になったことがあります。

この発言以外にもファン・ルーラーが「サッカー」について書いている論文がいくつかあるので、私はそれを昨日調べていました。

アヤックスもフェイエノールトもオランダの有名なサッカーチームです。半世紀前の日本文化でたとえれば「巨人-阪神」と言うのと似ています。「後楽園球場(現東京ドーム)で巨人-阪神を楽しむことこそ、聖化の本質である」と言うのと大差ありません。

ファン・ルーラーが「サッカー」について論文の中で盛んに言及しはじめたのは、1960年代になってからです。1970年に62歳で突然亡くなるまでの10年前くらいからなので、50代の頃からですが、このファン・ルーラーの「サッカー発言」がオランダの教会と社会に激しい論争を引き起こしました。

昨日、私が調べたかったのは、ファン・ルーラーのこの発言の背景と動機です。判明したのは、60歳近くなったファン・ルーラーが、40歳差ほどある20代の神学生たちの「若者文化」を受け入れる意味があったようだ、ということです。こう書いている箇所があります。

「ある学生(een student)が私に言いました。日曜日の朝は聖餐式にあずかりました。午後はスタジアムでサッカーを観戦しました。その後、教会の夕礼拝でカテキズム説教を聴きましたと。これこそが完全なキリスト者であり、申し分ない日曜日の祝い方である」

新しい著作集の2011年に刊行された巻に、「ある学生」(een student)の氏名が判明したことが記されています。1946年生まれ、2009年に亡くなった方です。日本でいえば団塊世代の方です。全共闘世代です。新しい文化を教会と社会がどのように受け入れるかが大問題だった時代です。

もし皆さんの中に「日曜日にサッカーを見に行くなど、けしからん」と叱られたことがある方がおられたら、ファン・ルーラー先生を訪ねれば、ほめてもらえたかもしれません。

今の東京では、サッカーや野球だけでなく、東京ドームや秋葉原やお台場や幕張などのイベントが該当するでしょう。

私たちはどのような教会を目指すでしょうか。「日曜日にそういうところに行くべきでない」と禁じるでしょうか。どうするかを考えることが私たちの課題です。

(2026年10月25日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年10月12日月曜日

2026年11月の予定

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

11月 1 日(日)永眠者記念礼拝

説教「人生の目標を定める」

ローマの信徒への手紙15章14~21節

11月 3 日(火)墓前礼拝(午前11時 地産霊園教会墓地)

説教「天国の色」

ヨハネの黙示録22章 1 ~ 5 節

11月 8 日(日)

説教「惜しみなく支援する」

ローマの信徒への手紙15章22~33節

11月15日(日)

説教「個人を尊重する」

ローマの信徒への手紙16章 1 ~16節

11月22日(日)

説教「夢をあきらめない」

ローマの信徒への手紙16章17~27節

教会学校(午前9時)

11月29日(日)待降節第 1 主日

説教「クリスマスの足音」

マタイによる福音書 1 章18~25節

祈祷会(礼拝後)

2026年10月11日日曜日

他者のために生きる

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「他者のために生きる」

ローマの信徒への手紙14章 1 ~12節

関口 康

「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(8節)

今日の箇所から15章 6 節までの箇所で、パウロは教会を「信仰の強い人」と「信仰の弱い人」に分けています。「強い人」という表現自体は15章 1 節で初めて登場しますが、同じ話題の続きですし、「強い」と「弱い」は対義語ですので、14章から用いても問題ありません。

具体例は 2 つです。第 1 は飲食の問題です。第 2 は日にちの問題です。この 2 点は、他の教会に書き送った手紙にも出てきます。

ガラテヤの信徒には、ユダヤ人のように「日、月、定められた時、年」を守ることで福音の自由から古い束縛に逆戻りした人々がいたため、反論しています(ガラテヤ 4 章)。

コリントの信徒には、偶像に捧げられた犠牲の肉を食べてよいかどうかの問題がありましたが、パウロは「議論の余地のある事柄」として扱っています(Ⅰコリント 8 章)。

コロサイの信徒には、偽教師たちが食物や飲み物、新月祭や安息日の遵守に関して律法主義的な見解で混乱が起きていたため、批判しています(コロサイ 2 章)。

今日の箇所を理解するために当時のギリシャ・ローマ社会の哲学者や宗教の間で禁欲主義が普及していたことを覚える必要があります。ピタゴラス派、オルフェウス教、ディオニュソス教などが菜食主義者でした。

オルフェウス教の人々が肉食を控えた理由は、生き物を怒らせる恐れがあるからでした。ぶどう酒を控えた理由は、知性を損ない、神々との交わりを妨げるからでした。他の運動や宗派では、ぶどう酒を完全に断ち、時には結婚を断つところもありました。その影響が教会にも及び、あるキリスト教のグループ(エンクラタイ派)では、聖餐式で水を飲みました。

しかし、「信仰の弱い人」という呼び方には大いに議論の余地があります。この人々は本当に「信仰が弱い」と言われなければならないでしょうか。

預言者ダニエルは、試練に遭ったとき、「三週間喪に服し……三週間が終わるまで、私は美食を断ち、肉もぶどう酒も口にせず、香油も塗らなかった」(ダニエル書10章 3 節)と記しています。ダニエルは「信仰が弱い」人でしょうか。

聖餐式でアルコールを用いない教会はどうでしょうか。足立梅田教会は創立以来、聖餐式でアルコールを用いていません。私たちは「信仰が弱い」でしょうか。そんなことを言われても困ると感じるに違いません。

パウロ自身にも矛盾がないわけではありません。自分を指さして「私たち強い者」(15章 1 節)と明言し、肉を食べることに異議を唱えず、特別なことでもないかぎり断食の日を守りません。しかしその一方で、結婚を避けること(コリント一  7 章)を勧めています。

コリントの信徒については、肉が偶像の神殿でしか手に入らなかったために「汚れたもの」とみなし、肉断ちしたかもしれないという可能性が指摘されています。キリスト者は毎日酒びたりで大丈夫でしょうか。

カール・バルトが、キリスト者の生活には「手すり」が必要であると記しています(川名勇訳「ローマ書新解」『カール・バルト著作集』第15巻、新教出版社、546頁以下)。この「手すり」は、山岳地帯の断崖絶壁沿いに設置されるゲレンデ(Geländer)です。体力に自信のない観光客が安全に旅行するために設けられます。

よほどの特殊訓練でも受けないかぎり、ゲレンデなしに登れる人は少数です。バルトがキリスト教信仰におけるゲレンデの必要性を訴えた意図は、パウロが「信仰の弱い人」と呼んでいる側の人々を擁護することでした。私も同意します。

しかし、表現の問題はともかく、飲食の問題と日にちの問題において教会の中で差が起きることがありうることは、よく分かります。

パウロがそう呼んでいる「信仰の弱い人」は、肉を食べてはならないことや、断食の日を守らなければならないことを確信し、キリスト教的に良いことであるとして、他の人にも同じようにしてもらいたいと期待します。異教の宗教的な祝日や、縁起の悪い日・良い日なども、ある程度まで、または全面的に受け入れ、重んじます。

そのような人の姿は「信仰の強い人」から見ると、あらゆる種類の束縛に縛られているという印象を与えます。

「信仰の強い人」が陥る罠は、「信仰の弱い人」が自由を欠いていると見えるため、その人たちを軽蔑することです( 3 節)。

「信仰の弱い人」が陥る罠は、自分たちの確信を揺るがされてなるものかと「信仰の強い人」を攻撃することです。

その対立が西暦 1 世紀の教会からすでにあり、今日まで続いています。

パウロが訴えているのは、飲食の問題と日にちの問題はキリスト教信仰の根幹にかかわることではないので、けんかをやめて、お互いの立場をノーコメントで受け入れなさいということです。どちらの人も神に受け入れられ、神の家族に迎え入れられているので、互いを受け入れなければならない、ということです。

飲食の問題や日にちの問題というような実際的で相対的な問題は、教会の教義や信仰告白などの絶対的な問題よりも価値が低いので、どうでもいいという意味ではありません。それは誤解です。

異端は毅然と拒否しなくてはなりません。しかし、飲食や日にちの問題は、教会を割らなければならないような問題ではありません。

私のことを言わせていただけば、パウロと同じです。飲食に制限を設けていません。盆暮れ正月すら無関係な人生を送ってきました。しかし、家族や親せきや地域社会、あるいは会社や仕事との関係の中で、それほど単純に事が運ばない方々の状況をよく知っていますし、軽蔑したことはありません。

日曜日はどうでしょうか。パウロの言う「どの日も同じ」という教えにおいては、「日曜日」も例外ではありません。なぜなら、キリスト者は何世紀にもわたってローマ帝国内で奴隷や労働者の階級に置かれ、日曜日は仕事をしなくてはならなかったからです。パウロの時代も、日曜日は「休んで教会に行く日」ではなく、せいぜい夜しか集まることができませんでした。

その続きに「私たちは誰一人、自分のために生きる人はなく、自分のために死ぬ人もいません」( 7 節)と記されています。

古代の人々も、人は自分のためだけに生き、死ぬことはできないことを知っていました。パウロと同時代のギリシアの思想家プルタルコス(西暦46年頃-119年頃)は「自分のためだけに生き、死ぬのは恥ずべきことである」(『クレオメネス伝』第31節)と言いました。

プルタルコスの意図は、人は「国家のために」生きて死ぬべきであるということです。これは極めて恐ろしい思想です。今日の説教題「他者のために生きる」は、その意味ではありません。

「自分のためだけに生き、死ぬこと」で満足すべきでないことは私も理解できます。自己中心的な生き方には限界があります。

パウロが教えているのは、キリスト者にとっての「他者」はイエス・キリストであるということです。「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(8~9節)と述べています。

(2026年10月11日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年9月13日日曜日

思いを一つに 足立梅田教会創立73周年記念礼拝

前列右から 3 人目が藤村靖一牧師(初代・第 3 代牧師)
後列左から 2 人目が北村慈郎牧師(第 2 代牧師)

説教「思いを一つに」

ローマの信徒への手紙12章 9 ~21節

足立梅田教会創立73周年記念礼拝

関口 康

「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者と思ってはなりません」(16節)

今日は当教会の創立73周年記念礼拝です。おめでとうございます。

しかし、そのお祝いの日に水をかけたいわけではありませんが、「73」はキリが悪い数字です。たぶんそうだろうと予測してAIジェミニに確認してもらったら、「あなたのおっしゃるとおり、73は素数です」と返してくれました。

素数とは「 1 とそれ自体の数以外では割り切れない数字」です。孤立している感じがあります。73周年で満足できるでしょうか。キリの良い80周年、90周年、100周年を目指したいでしょう。「75でもいいか」と思うかどうかは考え方次第です。

今日の説教題にこだわりはありません。「愛」のほうがふさわしいかもしれません。今日の箇所は最初から最後まで「愛とは何か」を教えています。しかし「愛」を言い出せば、毎週の説教題が「愛」です。「愛」という言葉は、聖書の中に数え切れないほど登場します。すべての教えの土台が「愛」です。

しかし「愛」の意味の説明は容易ではありません。愛し合う前に「愛の定義」を知りたがる男女のようです。「悪」と「善」の意味も同様です。しかし、何かを語らなければなりません。「愛」について語ることは、教会創立73周年記念礼拝にふさわしいことです。なぜなら、今日の箇所に記されている「愛」は「キリスト者の実践」との関係において各自が行うべきことだからです。

ある程度の確かさをもって聖書的・キリスト教的な「愛」を定義するなら、それは他者の幸福と尊厳を思い、他者を喜び、自分を他者と分かち合おうと努めることです。また「神は愛です」。「愛」は神の本質です。そして「愛」は日常生活のあらゆる関係の土台です。

その愛に偽りがあってはなりません( 9 節、Ⅱコリント 6 章 6 節、Ⅰペトロ 1 章22節)。完璧な愛は求められていません。しかし、うそでないこと、大言壮語でないこと、誠実さ(ピスティス)は求められています。

ピスティスとは、自分が立てた誓いを自分で取り下げないこと、約束した自分を自分で裏切らないこと、です。

同時に聖書において「愛」の実践は「悪」との関係を考える機会になります。戦後のオランダで活躍した神学者レッケルケルカー(A. F. N. Lekkerkerker [1913-1972])が『ローマ書注解・下』(オランダ語版、1965年、118頁)に記したことによれば、戦時中ナチス・ドイツに蹂躙されていたオランダ人にとって「愛しなさい」という戒めは「ドイツ人を愛さなければならないこと」を意味するかどうかの問題でした。

レッケルケルカーは結論的に「彼らが福音に反する世界観の代表者かつ実行者であるかぎり、『悪を退けなさい』という戒めのほうに該当した」と述べています。

悪とは、存在を害し、生命を損ない、人に不幸と破滅をもたらし、道徳的に非難されるべきものであり、究極的には神の意志に反するものです。

パウロは、私たちが悪を憎むべきであることを教えています。「悪を退け」と訳されていますが、ギリシャ語の訳としては弱すぎます。神は被造物と人間をとても愛しておられるので、罪を憎み、悪を無くしたいと願っておられます。

10~13節は兄弟愛(フィラデルフィア)で始まり、もてなし(フィロクセニア)で終わります。どちらの言葉も、古代ギリシャ・ローマ文化の中で「慈善の実践」において重要な意味を持っていました。パウロは、同じ家族内の兄弟間の愛情を意味するフィラデルフィアを、教会員同士の関係に当てはめました。「もてなし」は、見知らぬ人や旅人に対して実践されるべき美徳ですが、この言葉もパウロは教会内の関係に当てはめています。

第二の勧告では、ある賜物を受けた者が自分を他人よりも優れていると考える誘惑に反対しています。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」(フィリピ 2 章 3 節)。しかも、愛は教会の外なる人々にも向けられるべきことを主張しています(14節)。キリスト者は教会の中だけでなく、世の中にも生きているからです。

教会員同士の家族のような関係は「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くこと」(15節)を意味します。これは容易なことではありません。「喜ぶ者と共に喜ぶこと」は「泣く者と共に泣くこと」よりも難しいです。なぜなら人は、隣人の幸福、他人の喜びを見ると、嫉妬してしまうからです(A. A.ファン・ルーラー「喜びを人に分かつと喜びは二倍になる」(関口康訳はこちら)『使徒の権威において』、聖書黙想集、オランダ語版、1971年、118頁)。

「あらゆる喜びに共に喜ぶべきではない」と指摘する人(オリゲネス)もいます。商売が奇跡的に成功して莫大な資産を得て喜んでいる人と共に喜ばなくていいでしょう。この喜びは束の間のものだからです。同じように、隣人のあらゆる悲しみ、たとえば一時的に多額の財産を失った人の悲しみに付き合わなくていいでしょう。それも束の間のことです。簡単に割り切れないかもしれませんが、大事なことは、真の喜びと真の悲しみがどこにあるかを識別することです。

パウロは多くの箇所で教会に一致を促しています。「互いに思いを一つにし」(16節)は、先ほど引用したフィリピ 2 章 3 節と趣旨が同じです。この聖句は「謙遜な人々と交わる」という意味で理解すべきです。教会は「高い目標」、すなわち特別な賜物によって他の人よりも「上」を目指そうとする危険にさらされています。パウロは謙遜で小さな者の中に加わるよう勧めています。

パウロが17~19節に述べているのは主観的で感情的な「復讐」をすすめる言葉ではありません。主観的な「復讐」と、正当な罰としての客観的な「報復」を区別することは今日の箇所を正しく理解するために必要です。

パウロは、人が衝動に駆られて「復讐」を行うことを戒めています。その根拠として、神は悪に正当に報復し、犯罪者を罰する方であることを示しています。報復できるのは神のみです。神の罰としての「報復」は人間の「復讐」とは無関係です。

「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」(20節。箴言25章21~22節)の意味は謎です。分かりません。敵への拷問でしょうか。それとも、愛によって悔い改めと回心へと導くことでしょうか。拷問のほうではないと思いたいです。

教会の存在理由と目標を知ることは、私たちが教会につらなる意義と価値を知ることにつながります。教会は「他者のために生きること」と「悪と戦うこと」のために存在します。「悪と戦う」とは「悪人を善人に変えること」です。それがいちばん難しいことです。その最も難しい課題に、教会は取り組んでいます。

キリの良い「80周年」までと言われるとつらいでしょう。まずは来年の「74周年」まで、みんな元気に過ごしましょう。一歩一歩、地味に地道に着実に歩みを進めていこうではありませんか。

(2026年 9 月13日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年9月5日土曜日

2026年10月の予定

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


10月 4 日(日)

説教「隣人愛」

ローマの信徒への手紙13章8~14節

10月11日(日)

説教「他者のために生きる」

ローマの信徒への手紙14章1~12節

10月18日(日)

説教「互いを築き上げる」

ローマの信徒への手紙14章13~23節

10月25日(日)

説教「相手を受け入れる」

ローマの信徒への手紙15章1~13節