2026年8月9日日曜日

神は世界をあきらめていない

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「神は世界をあきらめていない」

ローマの信徒への手紙 11 章 1 ~10節

関口 康

「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。恵みによるのであれば、もはや行いにはよりません。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなります」( 5 ~ 6 節)

ローマの信徒への手紙の11章に入ります。

この手紙を今年 2 月から、前から順に読んできました。このペースで行けば、アドベントの前には読み終わるのではないかと予想しています。行き当たりばったりで読んでいるわけではありませんが、予定を立てきれてもいません。

このことを申し上げるのは、説教に限らず、来年度の教会全体の活動計画をそろそろ考えなくてはならないと思うからです。

内容に入る前にお話ししたいことがあります。私はこの教会で 3 年目です。招聘時についていた 3 年の任期は外してもらって無期になりました。しかし、牧師としての働きが私の「仕事」なのですから、ただ漫然とここにいればいいというわけには行かないでしょう。

「漫然(まんぜん)」とは、「心にとめて深く考えず、またはっきりとした目的や意識を持たないさま。とりとめのないさま。しまりのないさま」(広辞苑第 4 版)です。それを「仕事」と認めてもらえることはないでしょう。

先週「なぜ教会が必要なのか」という題の説教でお話ししたことを繰り返します。ひと昔前の日本の教会でよく言われたのは「教会は甘えている」という言葉です。「会社の支店やコンビニは売り上げが悪いとすぐにつぶされる。しかし、教会はそうではない。それは甘えである」という言葉が、キリスト教界の中で人口に膾炙したのを記憶しています。

「人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)する」の意味も説明しておきます。「膾」(かい)が「なます」で生肉(なまにく)。「炙」(しゃ)があぶり肉。その意味は「(なますとあぶり肉が万人に好まれるように)広く世人に好まれ、話題に上って知れわたること」(広辞苑第 4 版)。「教会は甘えている」という言葉が、それを言う人たちの口の中で美味しい。快感を伴っている。

私はこの言葉を、いろんな場所でいろんな人から聞きました。時期を覚えています。2000年代に入って10年ぐらいの間です。世代論(Generation theory)を言う人たちが「ゼロ年代」と呼ぶ時代。バブル崩壊後の長期不況の只中、会社も社会も自分の家も大変だったころ。しかも、これを言う人々の口ぶりや表情に共通点がありました。それを言葉で説明するのは難しいです。いま私がその真似をしている顔と口調です。ブログや動画では伝えきれません。

この話をずっと続けるわけにはいきません。しかし、今日の聖書の箇所に関係あると思うので、もう少しだけ続けます。

ゼロ年代までの私は、牧師しかしたことがありませんでした。学校で教えるようになったのは2016年以降です。

1990年 3 月に東京神学大学大学院を24歳で卒業して、翌 4 月に日本基督教団の教師(最初は補教師)になりましたので、2000年代は、牧師になって10年を過ぎたころ。私の 2 人の子どもが小学校から高校までの頃です。

その時期の日本社会の様子は、皆さんのほうがよくご存じでしょうから、私は何も言いません。問題はキリスト教界です。会社やコンビニとの比較で教会を「甘えている」と言うのは成果主義以外の何ものでもありません。

具体的な場面を覚えています。当時の私は日本キリスト改革派教会にいました。日本基督教団の「教区」にほぼ該当する(厳密にいえば意味が異なる)単位は「中会(ちゅうかい)」と呼ばれます。私はその「中会」の中の「伝道委員会」にかなり長く属し、その委員会の書記を任されていました。

「中会」の「伝道委員会」の最も中心的な仕事は、人をどうしたら教会に集めることができるかの手段を講じることではありません。そうではなく、小規模ゆえに経済的に自立できない伝道所を支援するために、同じ中会に所属するすべての教会から分担金を徴収して、支援が必要な伝道所に分配することでした。

いやな役目でした。はっきり言う人々は「うちの教会の牧師にもっと謝儀をあげたいのに、知らない教会を支援するために分担金を徴収されるのはたまらない」と言いました。そういうときに「教会は甘えている」という殺し文句が飛び出すわけです。

「すみません」と謝りたくなる気分でした。伝道委員会の立場にある私に向かって個人的に言われることもありましたし、200人規模の大きな会議の中ではっきり言う人もいました。

今日の朗読箇所の核心部分は、聖書協会共同訳も新共同訳も同じ小見出しをつけているとおり、「イスラエルの残りの者」です。

「残りの者」とは何のことでしょうか。パウロが「エリヤの箇所」と呼んで引用しているのは、列王記上の19章10節と19章18節です。しかし、「残りの者」の思想は、旧約聖書の中にたくさん出てきます。ノアの洪水物語(創世記 6 ~10章)、紀元前 8 世紀に活躍した預言者イザヤ(10章21節)やミカ( 2 章12節、 4 章 7 節)やアモス( 5 章15節)。紀元前 6 世紀の預言者エゼキエル( 6 章 8 節、11章13節、14章22節)など。

細かいことはどうでもいいです。紀元前 8 世紀の預言者は北イスラエル王国の滅亡、また紀元前 6 世紀の預言者は南ユダ王国の滅亡という歴史と深い関係にあります。たとえ国家が滅びても「神によって残された」一握りの人々が信仰を受け継いで生きていくという思想です。その旧約聖書の「残りの者」の思想こそ、パウロが記している「恵みによる選び」の思想の土台です。

分かりやすそうなことから言えば、「残り物には福がある」と言うではありませんか。あの格言は江戸時代の浄瑠璃などにもみられる表現で、キリスト教とは関係なさそうですが、ニュアンスが近いです。その意味は「人が先に取って残っている物に思わぬ利得がある」(広辞苑第 4 版)です。

人の目には無価値に見える。競争も奪い合いもなく売れ残っている。生鮮食料品ならば廃棄処分するしかない。すぐには腐らない置物や本などは、いつまでも残って棚や倉庫をふさいでいる。「回転率が悪い」とか「そもそも入荷すべきでなかった」と言われる。

「あるある」とか言っている場合ではありません。それが「教会」であるとパウロは言っているのですから。

「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。恵みによるのであれば、もはや行いにはよりません。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなります」( 5 ~ 6 節)とは、まさにその意味です。

「選ばれた人」と聞くと、才能と努力を遺憾なく発揮して優秀な成績を収めた人たちの中から、厳しい審査員による最終選考をパスした最優秀者のことを言っているのだろうと、私たちだって考えるでしょう。なぜなら、それが社会のオキテであり、学校も会社もそのオキテのもとにあるからです。

しかし、パウロが言っているのは正反対です。「もはや行いにはよりません」とは、才能も努力も成果も全く関係ない、という意味なのですから。

そして、そのようにして「恵み」によって「選ばれた」人が「残っている」以上、世界が滅ぶことはありません。神がそのような人を残してくださるのは、神が世界をあきらめていないことのしるしであると信じることができます。それこそが旧約聖書の「残りの者」の思想であり、使徒パウロの「恵みの選び」の思想の核心です。教団制度は崩壊しても選ばれた者たちは残ります。

そうは言っても、教会は「残りもの」であると言われると、カチンと来るでしょう。「漫然としている」ことができなくないのも教会です。目標や数字と無関係でいられるのも教会です。だからと言って、サボっているわけにいかないのも教会です。「残りの者」の意味を正しくとらえることが大切です。

(2026年 8 月10日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年7月12日日曜日

なぜ神は私をこのように造られたのか

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「なぜ神は私をこのように造られたのか」

ローマの信徒への手紙 9 章14~29節

関口 康

 「陶工は、同じ粘土の塊から、一つを貴い器に、一つを卑しい器に作る権限があるのではないか」(21節)

2 月から 6 か月目ですが、ローマの信徒への手紙を連続的に取り上げています。この説教方法を「連続講解説教」(lectio continua; continuous reading)と言います。キリスト教会の最初期から続く伝統的な学び方です。

「連続講解説教」と「教会暦説教」や「主題説教」との違いは、いったん始まると終わるまでが長いことです。 1 年、 2 年続くことも、ざらです。長いことが短所かどうかは考えどころです。今は長所だけを言うべきかもしれません。

「連続講解説教」の長所であり同時に短所かもしれないことがあります。それは私たちが不都合を感じるような「読みにくい」箇所から目をそらさずに読むことができることです。

ローマ書の連続講解を始めた 2 月から教会ブログの更新をストップしたのは、いま申し上げたことと関係があります。ローマ書には、いたるところに論争の火種があるからです。

ブログを開設した目的は、日曜日の礼拝に集まってくださっている方々の聴き洩らしの確認や、振り返りに用いていただくことです。不特定多数の相手に神学論争を挑むことではありません。

「ブログに書いてしまうと集まる必要が無くなるのではないか」とご家族の方から言われた、というお話も伺いました。おっしゃるとおりなので、とにかく今はブログをストップしています。

今日の箇所がそうです。ローマの信徒への手紙の中でも「最大のざわめき」を起こして来た箇所です。パウロ自身が、多方面からの抗議に身構えています。「では、何と言うべきでしょうか。神に不正があるのか。決してそうではない」(14節)。

これは、パウロが直前に引用したマラキ書 1 章 2 ~ 3 節の「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」について多くの人が感じる疑問への答えです。双子として同時に生まれた子どもなのに、「一方を愛し、他方を憎む」(?)というようなことを、神がしてよいのか。それが「神」だというのなら、そんな「神」は、とてもじゃないが信じられない、という反発です。

パウロが冷静だったかどうかまでは分かりません。しかし、ある意味で論理的に返しているのが「神はモーセに、『私を憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむ』と言っておられます」という出エジプト記33章19節の引用です。

「だれを憐れむか」は、憐れむ神の側の自由に属することであって、「憐れんでほしい、憐れむべきだ」という人間側の注文に応える義務は神には無い、という意味です。

そして、こう続けます。「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです」(16節)。

これは、パウロが 1 章から 8 章まで記して来た信仰義認の教えそのものです。信仰の行為や努力、熱心さがその人を救うのではなく、神がその人を救うのであって、熱量の多い少ないは救いとは無関係であるという教えです。

自分の反省や謙遜の意味ならば、話は別です。「私の祈りが聞かれないのは、祈りが熱心でないからだ。もっと熱心に祈らなくては」と自分を励ますことまでを悪いとは言えません。問題は、他人の話になるときです。「あの人の祈り/あなたの祈り」が聞かれないのは「その祈りの熱量が足りないからである」とやりはじめると、バトルが始まります。

しかし、「神の自由」が強調されると、ますます疑問がわいてくるのがわたしたちです。もし神が好き勝手に世界を創造したというのなら、この私がこんなに不格好なのも、この世界がこんなにめちゃくちゃなのも、すべては神のせいなのか。それならば、なぜ神は私をこのように造ったのか。答えてほしいと言いたくなるのが私たちです。

誰の心にもある思いをパウロは知っています。「そこで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのか。神の御心に誰が逆らうことができようか』」。

そしてその問いに対してパウロが「ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。造られたものが造った者に、『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか」と返して、ますます火に油を注ぐ結果になっています。

「なぜ神は私をこのように造られたのか」という問いは、私たちが人生の不条理、思い通りにならない現実、「親ガチャ」というような言葉に引きずられるとき、老いや弱さに直面するとき、心の底から湧き上がる、生々しい叫びです。簡単に片づけられては困る、人生最大の問題です。

もうひとつ今日申し上げたいのは、私のことです。

日本で古典的な教養を持つ人が「予定論」と聞くとすぐ思い浮かべるのが、16世紀のカルヴァンの名前と、20世紀のマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のタイトルです。

なぜそう言えるかといえば、高校の世界史教科書の世界観がそうなっているからです。予定論といえばカルヴァン。カルヴァンといえば予定論。予定論といえば資本主義の精神。

それがなぜ「私の話」なのかといえば、皆さんはご承知の通り、私は1997年 1 月から2015年12月までの19年間、日本基督教団を離れ、日本キリスト改革派教会に所属していたからです。

予定論はカルヴァンが発明したわけではありませんし、改革派教会独自の教えでもありません。しかし、まるでそうであるかのように思われている面が無くはありません。

一例だけ挙げます。

今年 5 月19日(火)、 K さんのご夫人の葬儀で私が説教させていただいたあと、谷塚斎場(埼玉県草加市)から谷塚駅まで他教会の信徒のかたとタクシーでご一緒したとき、「私は過去に日本キリスト改革派教会に所属していました」と話した途端に顔色が変わり、「改革派教会の予定論をどう思いますか。あんな恐ろしい神を私は信じることができません」と始まりました。「それはタクシーの中で、 3 分でお話しできることではありません」と丁重にお断りしました。

しかし、パウロの書き方に問題が無くはありません。悩んでいる人を突き放す感じがあります。論争が始まることには理由があります。火のないところに煙は立ちません。

21節の「陶工(新共同訳「焼き物師」)と粘土のたとえ」は、イザヤ書64章とエレミヤ書18章に基づくものです。これをパウロが「陶工は、同じ粘土の塊から、一つを貴い器に、一つを卑しい器に造る権限があるのではないか」(21節)と説明していて、ますます火に油を注いでいます。いよいよ神が独裁者です。

しかし、エレミヤ書18章を実際に開くと、そこには全く違う、驚くべき神の姿が描かれていることが分かります。「神はろくろで仕事をしていた。陶工は粘土で作っていた器を手で壊し、自分の気に入った他の器に作り変えた」(エレミヤ書18章 3 ~ 4 節)

ろくろで粘土を器の形にした経験があるかたはお分かりでしょう。美しい形になるまで、粘土は何度でも練り直されます。そのことをエレミヤが言っています。

エレミヤが描く神は「できそこないを叩き割る神」でも「不要なものをゴミ箱に放り込む神」でもありません。

神は、私たちの歪みや崩れた現実を、何度でも練り直し、よりよく仕上げてくださる陶工です。これは慰めの言葉なのです。

(2026年 7 月12日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年7月3日金曜日

2026年 8 月の予定

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


 8 月 2 日(日)

説教 「なぜ教会が必要なのか」

聖書 ローマの信徒への手紙10章14~21節

 8 月 9 日(日)

説教 「神は世界をあきらめていない」

聖書 ローマの信徒への手紙 11 章 1 ~10節

 8 月16日(日)

説教 「聖霊を悲しませてはなりません」竹澤潤平牧師

聖書 エフェソの信徒への手紙 4 章17~32節

(明治学院高等学校聖書科専任教諭、日本基督教団玉川平安教会協力牧師)

 8 月23日(日)

説教「野生のオリーブとは誰のことか」

聖書 ローマの信徒への手紙11章11~24節

8 月30日(日)

説教「信仰とは信頼である」

聖書 ローマの信徒への手紙11章25~36節

2026年7月1日水曜日

2026年 7 月の予定

 

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


7 月 5 日(日)

説教 「使徒の悲しみ」

聖書 ローマの信徒への手紙 9 章 1~13節

 7 月12日(日)

説教 「なぜ神は私をこのように造られたのか」

聖書 ローマの信徒への手紙 9 章14 ~29節

 7 月19日(日)

説教「とりなしの祈り」

聖書 ローマの信徒への手紙 9 章30節~10章 4 節

 7 月26日(日)

説教「知解を求める信仰」

聖書 ローマの信徒への手紙10章 5 節~13節

2026年6月28日日曜日

神との平和

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田 5-28-9)


説教「神との平和」

ローマの信徒への手紙 8 章26~39節

関口 康

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)

いよいよ来週 7 月 5 日から、礼拝の朗読聖書を「聖書協会共同訳」(2018年)に切り替えます。

新共同訳より悪くなった箇所があるかどうかは、まだ分かりません。完璧な翻訳は存在しません。それは地上に完璧な事物が存在しないのと同様です。

現在の印象としては、全体的に引き締まった文章になっています。今日の箇所の26節もそうです。

新共同訳(1988年):「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(82字)

聖書協会共同訳(2018年):「霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。」(77字)

なんと、この一文だけで、字数が 5 字も減っています。

新共同訳の「同様に」が「また同じように」になっているのは、 4 字増です。

新共同訳の凡例三(2)で「新約聖書において、底本の字義どおり「霊」と訳した箇所のうち、「聖霊」あるいは「神の霊」「主の霊」が意味されていると思われる場合には前後に“ ”を付けた」と解説されている二重引用符(ダブルクオーテーション)が削除されています。これで 4 字減。

新共同訳で「わたし」「わたしたち」はひらがなですが、「私」「私たち」と漢字になって 4 字減。「うめき」も「呻き」と漢字になって 1 字減。

「 4 - 4 - 4 - 1 」で、マイナス 5 。

週報に朗読箇所のページ番号を毎週記していますが、今日の箇所は「新共同訳(新約)285ページ、聖書協会共同訳(新約)279ページ」です。すでにここまでで、 6 ページ分の削減に成功しています。新約聖書全体でも、新共同訳480ページ、聖書協会共同訳467ページと、なんと、13ページも減っています。

聖書が少し軽くなったかもしれません。これは重さの問題だけではなく、全体的に文章が引き締まったことの証拠です。

今はスマホの時代です。字数が多いと嫌われます。日本の説教集で、語尾が「であります」( 5 字)や「なのであります」( 7 字)と軍隊調で書かれているのをご覧になったことがある方がおられるはずです。「です」なら、2 文字で済むのに。こういうのを水増しと言います。

内容に入ります。

聖書協会共同訳では二重引用符(ダブルクオーテーション)が外されましたが、「霊」(28節)が「聖霊」でなくなったわけではありません。聖霊は端的に神です。

「聖霊が弱い私たちを助けてくださいます」とパウロは記しています。「神が私たちを助けてくださる」と言い換えても同じです。ただし、聖霊は、私たち人間の体と心に宿ってくださる神です。

「山のあなたの空遠く 幸い住むと人の言ふ」と京都帝国大学教授・上田敏博士(1874-1916)の名訳があるカール・ブッセの詩のような「遠い神」ではなく、私たちの胸の奥に住んでおられ、私たちの呻きと共に呻いてくださる「近い神」です。

聖霊なる神が「弱い私たちを助けてくださる」のはありがたいことです。しかし、私たちのどこが、どのように弱いのでしょうか。パウロが述べているのは、「私たちはどう祈るべきかを知らない」ほど弱い、ということです。

これは、私たちの慰めになるでしょう。

当教会で、奇数月の最終週の礼拝後に祈祷会を再開しましたが、お祈りを「パス」してもいいことにしています。人前で声に出してお祈りするのが苦手な方がおられるからです。

礼拝の司会を役員さんがたに担当していただいていますが、お祈りが得意であると思っておられる方はいない気がします。責める意味はありません。

実は私も、人前で祈るのは苦手です。 60 歳で 60 年教会に通い、牧師生活 36 年目の私ですが、こればかりはどうしようもありません。

自宅でひとりでいるときや、バイクで走っているときは、よく神さまに文句を言っています。「神さま、ちょっと待ってくださいよ」とか「神さま、勘弁してくださいよ」と、よく言っています。これをお祈りと言えるかどうかは分かりません。ハタから見ると、ひとり言です。それでも、私なりに真剣です。しかし、そのことと、人前で祈ることは、全く別です。

しかし、パウロが記している「私たちはどう祈るべきかを知りません」には、人前でお祈りするのが苦手という話とは少し違う、もっと深い意味がありそうです。可能性として考えられるのは、「言葉がない」「言葉を失う」状況に直面したときです。

深い悲しみの底にある方の痛みに直面するとき。人間の力ではどうにもならない大きな自然災害や、防ぎようのなかった人災の悲劇を前にするとき。そのようなとき、安易な言葉の羅列、形式的な式文を読み上げることに戸惑う。なぜその人が、または自分がこれほど苦しんでいるのかを理解できないまま口にしたり、字にしたりしてよいかどうかを迷う。

そういう場面があることを、パウロは知っているのです。パウロの趣旨にそえば、聖霊なる神が、そのような私たちの事実を熟知しておられるのです。

だから「霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださる」のです。この「呻き」は陣痛であると、先週申し上げました。産みの苦しみです。今はまだ出口も結果も見えず、ただ苦しみしか感じないとき、何も言えない、言葉がない。その苦しみを聖霊なる神は、深く受け止めてくださり、一緒に呻いてくださる仕方で共にいてくださるのです。

いま申し上げたとおりのことを、パウロは27節に記しています。「霊は神の御心に従って聖なる者のために執り成してくださるからです」。

ここで「執り成し」とは、罪を犯して神に背を向けた人間に対して怒りを発する神と、自分の罪を認めて悔い改めている者たちとの間に、平和の架け橋をかけることです。そのみわざを聖霊なる神が成し遂げてくださいます。

そして28節。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています」(聖書協会共同訳)。

この「ご計画に従って召された者」の意味は「教会」です。神が私たち人間を罪から解放する作戦を立ててくださり(それが「ご計画」)、その目的のために召集されたのが教会です。つまり、私たちのことです。

「万事が共に働いて益となる」の「万事」の意味は「すべてのこと」です。しかし、この文脈において「万事」は、祈る言葉を失うほどの悲しみや苦しみを含めての「すべて」であることは明らかです。

しかし、その境地に至るまでには、多くの時間がかかります。苦しんでいる最中に「これも益になりますから」と軽く言われたら、かえって傷つきます。苦しいときに無理して笑わなくていいです。「やまない雨はない」とか「明けない夜はない」とか。言っても構いませんが、わざわざ言わなくてもいいです。そういうときに神は、黙って、しかし、希望の光を絶やさずに寄り添ってくださいます。

(2026年 6 月28日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)