2026年1月8日木曜日

来週1月11日(日)の礼拝にぜひおいでください!

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


来週 1 月11日(日)午前10時30分から主日礼拝を行います。ぜひおいでください!

日時 2026年 1 月11日(日)午前10時30分~

説教 「信頼をえるために」関口康牧師

聖書 テサロニケの信徒への手紙一 2 章 1 ~ 4 節

2026年1月5日月曜日

再来週 1 月18日(日)14時半から「地域合同祈祷会」を竹の塚ルーテル教会で行います

日本ルーテル教団 竹の塚ルーテル教会(東京都足立区伊興3-18-7)


親愛なる各位

毎年恒例の「地域合同祈祷会」を以下のとおり行います。ぜひおいでください。

日時 2026年 1 月18日(日)14時30分~

説教 「一致を求めて」関口康牧師(日本基督教団 足立梅田教会牧師)

聖書 エフェソの信徒への手紙 4 章 1 ~13節

会場 日本ルーテル教団 竹の塚ルーテル教会(江口真理牧師)

   東京都足立区伊興3-18-7  [地図] [教会HP]

   *足立梅田教会から「環七南通り→尾竹橋通り」経由でバイク14分(4.2km)

2026年1月4日日曜日

イエスにまなぶ 新年礼拝

日本基督教団足立梅田教会 東京都足立区梅田5-28-9)


説教「イエスにまなぶ」新年礼拝

テサロニケの信徒への手紙一 1 章 5 ~ 7 節

関口 康

「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア洲にいるすべての信者の模範となるに至ったのです」( 6 ~ 7 節)

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

皆様は年末年始いかがお過ごしだったでしょうか。私はついに料理に目覚めました。クリスマス以来、料理に明け暮れていました。

お恥ずかしい話です。オーブンレンジのオーブン機能の使い方が分かるようになっただけです。オーブンを使えるようになって、世界がこれまでとは違って見えるようになりました。宝の持ち腐れでした。

教会は本来、みんなで食事することをとても大切にしてきた団体です。主イエスは弟子や友人との食事を楽しまれました。その中に当時の社会の中で弾かれ見下げられていた人々もいました。そのような開かれた食事会を主イエスは積極的に行われました。

「神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と使徒パウロはローマの信徒への手紙14章17節に記しています。これは文脈がある言葉です。

当時のユダヤ教の食物規定をキリスト教会でも守るべきだと主張する人々と守らなくてもよいと主張する人々が対立して教会が壊れそうになっている中、食事がだれかをつまずかせるのであればいっそ食事をしないほうがいいし、肉も食べずぶどう酒も飲まないほうがましだと言っている文脈です。

パウロの趣旨は「食事のことでけんかになるなら何も食べるな」です。けんかしなければいい。仲良くすればいいだけです。

どことは言いません。かつて働いた複数の教会です。教会の奉仕がけんかの種でした。生け花でけんかになり、教会の看板でけんかになり、掃除でけんかになりました。なぜ「生け花」がけんかの種でしょうか。「あの人は高い花を買ってきた。あんな高いのを出されると私たちも高いのを買わなくてはならなくなるではないか」です。

私はそういうけんかには一切介入したくないのですが、黙っていると「牧師のリーダーシップが足りない」と私が叱られました。「教会の奉仕のことでけんかになるなら何もしないでください」と言いたくなるのを我慢することが多かったです。パウロの気持ちがよく分かります。

コロナ禍以前は、教会はもっと頻繁に食事会をしていたはずです。それを取り戻したいです。しかし、だれかの負担になることはしたくありません。けんかはまっぴらです。だとしたら、私が料理をすればいいではないかと思い至りました。

それで今日は、朝 6 時起床でアップルパイを作りました。好き嫌いがあると思いますので、無理強いしたくありません。もしよろしければ食べていただけますと幸いです。

①りんご

②りんごに砂糖を加えて煮る

③煮たりんごをパイシートの上に並べる

④アップルパイ完成

料理に関して私は、明確な原則を立てています。できるだけ安い食材を使うことです。高い食材が美味しいのは当たり前です。安い食材を美味しくするところに教会らしさがあると考えます。

私の料理の腕が上がったらけんかになるかもしれません。「牧師の料理が美味しすぎる。あんな美味しいのを出されると私たちも美味しいものを作らなくてはならなくなるではないか」。

今日から続けてテサロニケの信徒への手紙一を読むことにします。 1 月のすべてのテキストを、この手紙から選びました。日曜日が 4 回ありますので、 1 回 1 章で、 4 章まで読みます。 5 章は、昨年11月30日(日)の説教「終末と希望」で取り上げましたので読了済みとします。

なぜこの手紙なのかといえば、 5 章のとき申し上げたとおり、この手紙は、パウロ書簡の中でも、新約聖書の中でも「最古の」文書だからです。西暦50年代に書かれました。その新約聖書の「最古の」文書に書かれていることに基づいて、教会の信仰の「原点」は何かを確認したいと思いました。

以下、要点です。

① この手紙の共同執筆者はパウロ、シルワノ(別名シラス)、テモテです。彼らはチームです。教会の宣教活動は個人プレーではなくチームプレーです。しかし、チームリーダーは必要です。パウロはリーダーです。牽引役、まとめ役は必要です。「船頭多くして船山に上る」です。

② テサロニケは、当時のギリシアですでに大都市でした。しかし、パウロたちの関心はその都市自体にはなく、そこに住んでいたキリスト者と教会に関心がありました。「テサロニケの教会」( 1 章 1 節)の意味は「テサロニケにある(in)イエス・キリストの教会」です。

教会は「世にある教会」です。地域社会の中に・共に・下にあります。しかし、教会は地域の行政組織に吸収されるものではありません。町の中でやや浮いた存在になりがちです。しかし、だからこそ町の中で行き場を失った人々の逃げ場、受け皿になります。

③ この手紙は共同執筆者がいるなどチームプレーの産物です。しかし、そうであることは個人を無視することを意味しません。人間関係のトラブルは直接言うと角が立つことばかりです。皮肉や当てこすりは逆効果ですが、個人と個人の対立にならないように配慮することが大切です。

④ この手紙の中でパウロが自分を「使徒」と名乗る箇所はありません。それはパウロがこの教会と友好関係を築いていたからだと説明されています。パウロが自分の肩書きをかざすのは、彼の使徒性を否定する人々に抵抗しようとしているときです。テサロニケ教会に対してはそうする必要がありませんでした。この教会にとってのパウロの権威は「ちょうど母親がその子供を大事に育てるような」( 2 章 7 節)優しい権威でした。

⑤ この手紙にはテサロニケの教会に対するパウロの愛情表現が非常に多いです。 1 章 2 節から 3 章13節まで、この手紙全体の 5 分の 3 が「感謝」の言葉です。「感謝します」という言葉が 3 回出てきます( 1 章 2 節、 2 章13節、 3 章 9 節)。まるでラブレターのようです。牧師と教会の関係は仲が良いほうが健全でしょう。けんか腰でにらみ合っていることの正反対です。

⑥ パウロは教会への祈りとして「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、私たちの主イエス・キリストに対する希望を持って忍耐していることを心に留めている」( 1 章 3 節)と記しています。

「信仰、希望、愛」の三つ巴は、本書 5 章 8 節、第一コリント13章13節、コロサイ 1 章 4 ~ 5 節にも出てきます。この三つ巴はパウロが最初ではなくもっと前からあった表現をパウロが継承していると考えられています。

「信仰、希望、愛」の 3 つは、区別されますが、切り離せません。愛と希望のない信仰は無意味です。信仰なき愛は曖昧です。希望なき信仰と愛は息切れします。

⑦ パウロはテサロニケの教会を「すべての教会の模範」と呼んでいます。この「模範」は、真似(まね)と学(まな)びをかけて「まねび」であると言われます。

14世紀から15世紀まで活躍したカトリック司祭トマス・ア・ケンピス(Thomas à Kempis [1379-1471])の主著『イミタチオ・クリスティ―キリストにならいて』(講談社学術文庫、2019年)のタイトルのラテン語「イミタチオ」(imitatio)はイミテーション(imitation)の語源です。

イミテーションといえば「模造品」ですが、それは原点に忠実であることでもあります。このイミテーションが「まねび」です。

テサロニケの教会が「模範」だったのは「多くの苦難の中で聖霊の喜びをもって御言葉を受け入れていた」からです。その人々は多くの人々にとっての「苦しみの模範」であり、苦しみの中で御言葉によって聖霊の喜びを与えられて忍耐して生きる人々の模範です。

教会の信仰の原点は、信仰・希望・愛、そして喜びです。

喜びに関するテキストを 2 か所紹介して、今日の説教を終わります。

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(ガラテヤの信徒への手紙 5 章22~23節)。

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12章15節)。

(2026年 1 月 4 日 日本基督教団足立梅田教会 新年礼拝)

2025年12月28日日曜日

復活の力 年末礼拝

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「復活の力」年末礼拝

フィリピの信徒への手紙 3 章12~14節

関口 康

「なすべきことはただひとつ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(13-14節)

今日は、2025年最後の礼拝です。

週報に人数を記しましたが、クリスマス礼拝も、クリスマスイヴ礼拝も盛会でした。礼拝堂が小中高校の 1 教室の広さなので、「満員」と言えるでしょう。「満員御礼」という垂れ幕を天井からぶら下げると楽しいかもしれません。

今年 9 月 7 日(日)足立梅田教会創立72周年記念礼拝で再確認したのは、創立者・藤村靖一先生がお立てになった「ゆっくりゆっくり」という基本方針です。骨子は次の 3 つです。

1. 集会をできるだけ少なくする。

2. 受洗者は年にひとりでよい。しかし、最後まで脱落しないように祈る。

3. 牧師の生活は自分で支える。

集会の回数については、昨年から教会学校を年 4 回の目標で再開したことと、今年 5 月から奇数月の礼拝後に祈祷会を始めましたので、むしろ増えました。しかし、元々あった集会を復活させたものです。

受洗者は何年もいません。牧師は副業を求めていますが、できそうなのが見つかりません。自炊してエンゲル係数を減らしています。

60歳になりましたので、最速で 5 年後には国民年金を受給可能な年齢になります。しかし、政治家が余計なことをして受給年齢を引き上げられたりすると長引きます。

いま申し上げたことは悪い意味で言っていません。副産物があります。

受洗者の件の副産物は、ノルマ主義からの解放です。

東京神学大学を含むすべての神学部・神学校が、学生不足で苦しんでいます。それはそうでしょう。驚くことではありません。根本的な問いは「神は自動的・機械的に一定数の人々に召命を与えるのか」ということです。ありえないでしょう。

「召命」は牧師になることだけでなく、洗礼を受けることも同じです。毎年ひとりずつ、神が人をお召しになるでしょうか。神の選びは神の自由です。私たちにできるのは、教会の仲間がもっと多く与えられますように、と祈ることだけです。

牧師の自活問題の副産物は、牧師の料理の腕前が飛躍的に向上したことです(自己評価)。私の料理が「売り物になる」とほめてくださる方がおられますが、本気で商売を始めると説教どころではなくなります。商売の世界は甘くないです。

今日はフィリピの信徒への手紙 3 章12節から14節までを朗読していただきました。説教題の「復活の力」という言葉は 3 章10節に出てきます。あとで触れます。

パウロが強調しているのは、目標を目指して走っている私は、ゴールに達していないという意味で、途上にある、不完全な者である、ということです。

これは、自分の存在をどのようなものとしてとらえるかという自己認識の問題です。自分は不完全な者であり、それゆえ謙虚でなければならない存在なのだと、パウロは確信しています。

「賞を得るために走る」とはレースに参加することです。このレース場はぐるぐる回るトラック(Track)式の競技場です。競技種目は分かりません。競馬かもしれませんし、人間の足で走る競争かもしれません。

しかし、重要なことは、パウロがこれを特別な日のレースの話にしていないことです。ごく普通の日常生活のすべてをレースに見立てています。

そのように説明すると、かえって疑問が増えるかもしれません。

「日常生活がレースであるということは、生きているだけで賞をもらえるということですか。何をもらえるのですか。お金ですか、モノですか、笑顔だけですか。1 等だけですか。何等までありますか。参加賞はありますか」。

これらの疑問に答えをもらえる優れた言葉が、私が愛用している註解書に記されていました。

「賞は参加への招待である」(De prijs bestaat uit de uitnodiging om mee te doen)

(A. F. J. Klijn(クレイン), De brief van Paulus aan de Filippenzen(フィリピ書註解), Prediking van het Nieuwe Testament, 1969, p. 81)。参加賞は全員もらえます。

しかし、気になることがあります。それは、レースのたとえなのにレースらしくないことです。他人との比較が問題になっていません。パウロは、自分はまだゴールにたどり着いていないということだけを言っています。ここに描かれているのは、他のだれかと順位を争うレースではありません。

戦う相手はどうやら自分自身です。自分の不完全さ、未熟さを自覚し、たかをくくらず、高慢に陥らず、地上の命が尽きるまで神と教会に仕える生涯を送ることを指しています。

それをパウロは、独特の言葉で表現しています。

「私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(10~11節)。

要するにパウロは「私は復活したい」と言っています。「何とかして復活に達したい」と。

解釈が難しい言葉があります。それは「その苦しみにあずかって」の「その」です。「どの」苦しみにあずかる(参加する)のでしょうか。「その」という指示代名詞が指す言葉が何なのかが分かりません。

通常、指示代名詞は直前の言葉を指しますので、可能性は 3 つあります。

①「キリストの」苦しみ。

②「キリストの復活の」苦しみ。

③「キリストとその復活の力とを知る」苦しみ。

①「キリストの苦しみ」と理解する可能性は、最も説明しやすさがある選択肢ですが、具体性が乏しいです。私たちが「キリストの苦しみ」にあずかるとは、私たちが十字架につけられて死ぬことを意味するでしょうか。

③を②よりも先に言います。③「キリストとその復活の力とを知る苦しみ」だとすれば、聖書とキリスト教を学ぶことが苦しい、という意味になるでしょう。そのような感想を持つ人がいないとは限りませんが、パウロがそういうことを言うとは考えにくいです。

②は、「キリストの復活の苦しみ」です。復活とは苦しいものだということです。復活は自動的に起こることではありません。死の苦しみを乗り越え、必死でもがいて、何度でも何度でも立ち上がることが「復活」だということです。

私がおすすめしたいのは②の読み方です。「キリストの復活の苦しみにあずかる」です。これで行けば「何とかして死者の中からの復活に達したい」(11節)というパウロの言葉の意味を理解できるようになるでしょう。

それは、幼虫がさなぎになり蝶になる、あの変態(メタモルフォーゼ Metamorphose)に近いです。

「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12章24節)という主イエスの御言葉に具体性を与えます。

先ほどと同じ註解書ですが、著者(クレイン先生)の説明もこれに近いです。

「復活を知るとは、苦しみを知ることを意味すると言えるだろう。苦しみなくして復活なし(Geen opstanding zonder lijden; No resurrection without suffering)であることをキリストは示された」(A. F. J. Klijn, Ibid. p. 79)。

足立梅田教会は死んでいません。「復活」という言葉は当教会には当てはまりません。しかし、「キリストの復活の苦しみにあずかる」ことができれば、教会の活気をもっと多く取り戻すことができるでしょう。

「苦しみなくして復活なし」(ノー・レザレクション・ウィズアウト・サファリング No resurrection without suffering)です。

来年もよろしくお願いいたします。

(2025年12月27日 日本基督教団足立梅田教会 年末礼拝)

2025年12月24日水曜日

きよしこのよる クリスマスイヴ礼拝

クリスマスイヴ愛餐会のローストチキンとシュトーレン

クリスマスイヴ礼拝プログラム

クリスマスイヴ礼拝看板

夜のクリスマスツリー


説教「きよしこのよる クリスマスイヴ礼拝」

ヨハネによる福音書 1 章14~18節

関口 康

「言(ことば)は肉体となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)

今夜はクリスマスイヴ礼拝にお集まりいただき、ありがとうございます。

今日は朝から雨で、寒くてどんよりした一日でした。これで元気でいられる人は相当タフです。

体の寒さの問題は、着る服を増やすだけで解決します。心の寒さの問題はそれほど簡単には解決しません。だれかとけんかした、修復不可能な亀裂が生じた、なんらかの事情で仕事を失った、生活が行き詰った、など。

私も他人事ではありません。牧師なので相談を受けることはありますが、まともに答えられないことのほうが多いです。「美味しいものを食べて、よく寝ることですね。ぐっすり休んでから、これからのことを考えましょう」と答えるぐらいで精一杯です。

食べることは大切です。美味しいものを食べると体も心も温まります。もちろん「美味しい」かどうかで温度差が生じますし、「美味しい」と「楽しい」が重なると、体温が上がります。

今夜の聖書箇所に「言は肉体となってわたしたちの間に宿られた」(14節)とあります。これがヨハネによる福音書の「イエス・キリストの誕生の次第」についての独特の表現です。

教会の信仰によると、イエス・キリストは、父の独り子としての御子なる神であり、人間としてお生まれになるために母マリアから「肉体」を受け取られました。

主イエスが母マリアから受け取られた「肉」は「お肉屋さんに売っているあの肉と同じです」と、東京神学大学の学生だったころ、私の記憶が正しければ左近淑教授が言われました。

この「肉」(ギリシア語「サルクス」)は人格(ペルソナ)を持ちません。わたしたちが動物の肉を食べるのは、肉そのものにはその動物のペルソナがないからです(人ではないので「人格」と呼べませんが)。もし「肉」そのものがペルソナを持っていれば、私たちは食べた肉のその動物に成り変ってしまうでしょう。

不謹慎な話をしていると思わないでいただきたいのです。神の言葉がお肉屋さんに売っている肉になった。それがイエス・キリストの誕生の次第であると、聖書に確かに記されています。

先日クリスマス礼拝後の愛餐会で、私が初めて作ったシュトーレンを食べていただきました。

クリスマスイヴの今日はローストチキンを焼きました。茶話会で食べていただきます。

どちらも自分で作るのは初めてです。私にもできるようになったのは助けがあったからです。

助けのひとつはネットのレシピです。もうひとつの助けは「生成エーアイ」(generative artificial intelligence)です。

 2 年前の2023年が「生成エーアイ元年」だそうですが、実際に多くの人が使うようになったのは今年2025年です。今年は「生成エーアイ社会実装元年」と言われます。

だれとでも競争したがる人たちはエーアイとも競争したがるようです。「エーアイにこういう質問をしたら間違った答えをした。エーアイは大したことがない」と言う人の話を耳にするたびに、どうかしていると思います。なぜ張り合うのでしょう。協力者になってもらえばいいだけです。

今日エーアイに助けてもらったのは電子レンジの使い方です。「ローストチキンを教会の皆さんに食べていただきたいのですが、万が一でも生焼けのところがあってはいけないので、オーブンで焼く前に電子レンジで火を通すほうがよいと思うのですが、その場合の電子レンジは何分ぐらいがいいと思いますか」と尋ねました。

すると「とても大切な配慮をなさっておられますね」とエーアイがほめてくれて、「600ワットで 8 ~10分程度です」と、科学的な根拠を挙げて説明してくれました。エーアイは勘(かん)では答えません。

もしかしたら将来的に、エーアイに「ローストチキンを作って」とひとこと言うだけで、買い物、調理、盛り付けから、BGM(音楽)の選曲、皿洗い、あとかたづけ、掃除、ゴミ捨てまで、すべて自動でしてくれる時代が来るかもしれません。

しかし、たとえひとことであっても「ローストチキンを作って」と私たち人間が意思表示しないかぎり、エーアイは何もしてくれないでしょう。意思表示は人間の役割です。エーアイと人間は張り合う関係にありません。うまくつきあえば世界が広がります。

そういうわけで、今年のクリスマス礼拝とイヴ礼拝は、説教の準備と同時にシュトーレンづくりとローストチキンづくりに時間と労力を注ぎました。そうすることが「これからの教会」のあり方を考えるうえで大切なことだと思えたからです。

具体的にいえば、忙しい日々の最中にクリスマス礼拝に集まり、寒い日の夕方にクリスマスイヴ礼拝に集まって、牧師が難しい聖書のお話をすることで、みんなの心が温まるかどうかを考えてみて、ありえないと思いました。別の発想が必要です。

イエス・キリストが「肉となった神の言」であられることは、私たちの「神」に「体温」があるというイメージを持つこと、「神は温かい方である」と実感することを私たちに許します。

「肉」(サルクス)の体をまとわれたイエス・キリストは「体温」を持っておられました。それは「神の体温」です。それを感じることができる「温かい教会」であることが必要です。夏は夏で、ひんやり冷たい手がうれしいです。

私は皆さんと握手することにも慎重な「非接触牧師」ですが、直接触るかどうかよりも、心と心のふれあいや、共に食事をして励まし合うことが大事です。

(2025年12月24日 日本基督教団足立梅田教会クリスマスイヴ礼拝)